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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

モラトリアムにおける迷子

DAOKOの「ないものねだり」という曲の一節にこんなものがある。

 

迷子のオトナたちが子どもになりたがっている。迷子の子どもたちがオトナになりたがっている。ないものねだりなのは、ないものばかりだから。愛想つかさないでよ。

 

この曲も以前あげた「JK」同様全編にわたって歌詞をご覧頂きたい曲であるが、ともかく、この歌詞を聞いた時、何か私を見透かされたような気分になったものである。ある意味で知りすぎてしまった大人が、純真無垢であった子供時代への回顧を隠せないように、まだ自由を知らない子どもたちが、「縛られない」とされる大人時代への思慕を隠せないように、この歌詞は真に的を射ている。

 

両者は、恐らく同様に見たいものしか見ていない。思い出は常に美化されるものであり、理想は常に都合の悪い側面を諦めて構成されるものである。子ども時代がすべてバラ色であるはずはなく、大人が皆自由を満喫し、自由によって幸福を手に入れているわけはない。無知であることが如何に幸せであるかは一度知ってみなくてはわからないし、自由存在は、如何に雑多な係累と責任によって雁字搦めにされ身動きを取れなくさせられるか、そうなってみなくてはわからない。イヴは間違いなく知恵の実を食べなかったほうが客観的には幸せだっただろうが、彼女はそれを口にしなければそれを分かり得ないのである。

 

ここにあって、モラトリアムにおける「迷子」の儚さと有用性が見えてくる。モラトリアムにおいて、我々は何にもなれないし、何にでもなれる。背伸びをすれば大人になれるし、係累を捨てれば子どもに戻れる。両者の善悪を知悉すれば自ずと自己の幸福の在り方がみえるのである。この点においてモラトリアムは大変に有用である。

 

しかし、同時にそれは甚く儚い。「係累を捨てれば」というがその係累はモラトリアムにあっても死活問題であり、結局我々は前に進んでいくしか無いから、過ぎてしまった時代に擬態はできても、戻れはしないのである。遍く在った我々のモラトリアム存在は、同時にどうしようもない希少性をはらみ、それはそうであるときから薄々感づく程のものである。

 

我々は、今の自分から戻れもしなければ過度に進むこともできない。ただここに縛られたもどかしさから日々抜けだそうと、様々当たり散らす。自分が縛られた「ここ」は他者によって曖昧に定立されるが、同時に自己によってしか認識できない。この曖昧さと独我性が我々を迷子に誘う。



賢者は、自己の在る今と進む道を知悉し、それを以って足れと唱える。しかしそんなに味気ないことはない。常に過去に憧れ、未来に憧れ、今の自分を自分で讃え、時に全てに失望しながら、迷子の中、手探りで結局定められた通りに進んでこそ人間臭いのである。「人間であれ」というルソーの言葉に欠如した人間臭さの根底はここにあるのではないかという飛躍した推論だけを提起して駄文を終える。