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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

大学における「多様性」の欺瞞

大学 教育

多様性について、論じたばかりであるが、今度は大学における「多様性」の欺瞞について考える。

 

「大学は、様々な人々が集う多様性に満ちた空間です!」などというウリ文句がある。なんとも欺瞞に満ちていると私は思う。少なくとも日本第二位の学生数を誇るW大学においては、ある種の欺瞞をはらむ。

 

「大学には多様な人々が集う」という点は、一面的には間違いなく真実である。ハイデガー的思索に陥ると、論が始まらないので置いておくとして、とりあえず自己と他者は厳然として違い、大学という場所は一所において他者性が交わり続ける場である。高田馬場駅で、学校で、学生会館の中で、多くの奇異で大変興味深い人たちを多数観測する。学生一人ひとりに固有の学生生活があり、固有のプライベートがあり、交友関係がある。それらの網の目が我々の生活圏内に張り巡らされ、それらの交点において発生する「出会い」とやらにおいて様々なものが生み出される。

 

では、私はなぜ欺瞞であると述べたか。結局本学の学生は、ある面において極めて同質であると私は感じるからだ。

 

常々、入学試験というものは同質化作用が過度なまでに強いと感じている。結局WやKや宮廷一工に入る学生というのは、根っから真面目であり、だいたい両親の経済状況や学歴が一定以上の水準があり、何より同じ科目しか勉強していないのである。更に共同体は細分化される。大学は、学部ごと、学科ごと、専修ごとに、わずかな科目数のみを科し同質な学生を確保しようと努めている。このような状況の中で大学という共同体は極めて同質的な集団が集う場へ変容していく。

 

結局、大学が求める学生の条件に、多様性なんてものは微塵もないのである。結果的に集まってきた学生の個性において、学問とは別方向に発露する特徴が多様であるに過ぎず、大学は何も多様なんて求めていないし、現に学問をする場としては極めて同質的で創造性に乏しい場に発展している。ある特定の◯◯大生の見方は、残念ながら相応の集合に内包され得るし、誰に聞いてもだいたい同じような学問的生活的背景を元にした発言しかなされない。私は、少なくとも高校における集団のほうがまだ多様であったのではないかと思うのだ。

 

 

もちろん、このような指摘に対して大学側が動いていないわけではない。昨今ペーパーテスト以外(AO入試等)による選考の傾向が加速している。AOにはAOに対する対策が横行し、さながら就活対策よろしく、結局あんなもので「人」は測れないということが露呈している真っ最中であるがなんにせよ、対策はなされているわけである。しかし大学は依然、その志向するところの同質性への思惑を捨てられてはいない。結局「AOは抜け道である」なんて批判にかまけて、ある特定の科目の学力を選考基準に入れたり、あるいは特化した人材を取ろうとするあまり、却って「特徴的である」という同質性に支配されたなんとも珍妙な集団が形成されたりしている。

 

文科省の掲げるところの大学入試制度改革案については、気力があれば後ほど記事にする予定だが、そこで留意されるべきは、「秩序ある多様性」を有した集団形成への志向である。多様多様と口々に叫んで、多様性に対する軸がないようでは仕方ない。これについては一考すべきである。

 

 

私は、自分の所感についてすべてを述べるだけの文才も語彙力もないからこの程度のことしか書けないが、私の周囲に聞くとだいたい「大学に多様性はない」と答えていただけるものである。ただそれだけのことが言いたいのだが、それだけでは少々気がすまないので長く書きすぎた。大学は、たくさんの学生が通うが、たくさんの思考の学生がいるわけではない。これは一面的には真であるのではないか。