ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

議論において、多様性が「ある」ということ

様々あって、「多様性」について考えるはめになっている。「議論や学問をする場における集団は、ある程度多様であるほうがよい」という経験則に基づいた感覚における「多様」とは一体どの程度の多様を言うのだろうか、というへんてこな、しかし至極真面目な問いである。

 

多様である集団を、ある集合体として定義した瞬間に、その集団は「多様」というへんてこな同質性を持った一個集団となる。多様であるはずの集団は、個々が議論の過程で、議論をするための共通認識を持つために自己と他者の共通点を認識しようとし、結果的に、集団内の個人を同質化していく。類は友を呼ぶよろしく、最初は多様であった集団も結果的に同質化しその特色を失っていくのである。

 

理想的なバランス感覚を持った議長及び参加者を仮定するならば、議論において、異なる背景を持った人々を一度、同じ議論の土台の上に立たせてその上に個々人の「個性」を再形成させる営みが行われるはずである。ある共有された事象に対して多角的な見方が提起され、それらが統合されあるジンテーゼが創生されることを議論の最高の実りとするならば、上述の営みが不可欠となる。

 

しかし、現実の議論はそうもいかない。現実の議論が辿る経過は概して3つある。1つ目は、そもそも議論をする集団に多様性が存在しなかったために、個々人がもつテーゼが、枝葉末節の表現を変化させた形で結論として現出する場合がある。人は仲間を欲するため、共に議論する相手に「共通点」を見つけ自己の思考体系の中に共に議論する他者を定立させようとする。この共通点探しがうまく行きすぎてしまった時、このパターンに陥りがちである。

 

2つ目に、共通点探しがうまくいかないまま、議論時間を消費した結果、個々人の持つテーゼすべてが結論として内包され、至極漠然とした結論なき議論が行われる場合がある。「私は~~をしてきた何者である」と表現することに時間をとりすぎ、議論参加者も参加者で彼は誰々であるとして自己の中に定立するために手間取るということが往々にしてある。だいたいが、自分は何者であると述べるために自己の体験談を開陳した結果、それの示す別の方向性に参加者が足を取られ、共通点探しまで至らないケースがある。

 

3つ目に、背景設定がうまくいかなかった結果、2番めのケースと同じ末路を辿る場合がある。ある突出した知識らしき何かを持つ人に議論を引っ張られた結果、持って行きたい議論の方向性に達し得ないケースである。だいたい、その知識らしき何かは真の知性ではなく、「議論」の場においては必要とされていない雑学である場合が多いのだが。

 

ともかく、実際の議論において多様性はありすぎてもなさすぎてもだいたいうまくいかない。適当な多様性を内包した場こそが議論を実り多きものとする第一義である。

 

 

ではその適当な多様性とは一体どのようなものか。

 

私はここに、即興で「秩序だった多様性」という概念を導入する。そしてこの概念と対置するところに「拡散する多様性」という概念を定置する。人間という存在は、極めて大雑把に述べれば幾つかのベクトルによって類型化できる。個人の政治的思想はおよそ三次元空間上において可視化できるという話をどこかで聞いたが、個人全体の特質においても何本かのベクトルによって類型可能である。この幾つかのベクトルを指定し、ある方向においてはある程度の同質性が見込め、ある方向において特に多様であることが想定された集団の様を「秩序だった多様性を持った集団」とする。

 

拡散する多様性は、これに対置される。すなわち、多様の方向性が意図されない場合である。当日会ってみるまで他者の真の他者性は感得し得ないが、その想定さえできない、またはなされない集団を「拡散する多様性を持った集団」とみなす。議論に有用なのはもちろん前者である。

 

議論のテーマごとに求められる多様性がある。議長が求める多様性と実際の参加者がマッチしないことは多くあろうが、無理矢理にでも参加者の多様性の軸を秩序だてて整理するほうが恐らく議論というのは実り多く終わる。議長及び参加者は、仮にある方向性を同質であると割り切り、ある非常に特定の分野に対する見方に対して多様性を担保していくことが必要ではないか。要は「あなたと私は違う」という命題を真に認識して、あなたと私のこの部分は同じであると仮定してあの部分の相違について、この部分に対する自己の見方を提示しながら議論しましょうとするしかないのだ。

 

なんとも夢想的な論であるが、一旦筆を置く。ひどい駄文であった。