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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

「女性は子どもを2人以上」発言の校長が退職した件を考える

「女性は子どもを2人以上」発言の校長が退職なさるらしい。発言内容やその後の経過は、おググりいただければいくらでも出るので省略するが、この問題も「保育園落ちた日本死ね!」問題並に滑稽である。稚拙ながら私の思考を書き散らす。脳裏の落書きの保管場所としての真価であり、前記事のような大衆迎合に走ったものは本来的ではない。

 

随分前からの理論であるが、合計特殊出生率がだいたい2.1を割ると人口は自然減少局面へと転換するらしい。2人の両親から2人より少ない子どもしか生まれないのであれば、人口が減るのはどう考えても自明であり、これに事故や病気などで亡くなってしまう方を合わせればだいたい2.1という数値の妥当性も推し量れるであろう。

 

もはやローマ帝国の昔からの出来事であるが、先進国では、出生率が低下しがちであり、特に都市部ではその傾向が強い。これにはいくつも理由があるが、ここでは省略する。ともかく、この問題は今もなお健在であり、日本も少子高齢化を加速させているところである。福祉政策や国の経済規模の維持などの観点から、総人口に占める労働生産人口は一定以上の割合を維持することが望ましく、そのためには少子高齢化の「少子」の部分を解消することが好ましく、そのために「女性は子ども2人以上」生むことが肝要であるという論理展開は納得できるところである。ゆえに、この発言のこの部分だけ見れば、少なくとも一面的に正論である。

 

皆さんご存知のことだろうが、この発言に関する論点はおよそ2点ある。1点目に、「社会のために、子どもを生むことは個人のキャリア形成よりも重要である」としている点であり、2点目は、こういった話を共学の中学校の全校集会で行ったという点である。私もご多分に漏れず、この2点について考察を行っていきたい。

 

まず1点目についてであるが、「社会を優先すべきか、個人を優先すべきか」は我々が直面する永遠のテーマである。だいたい後者のほうが近年は強調され、前者は時として悪者扱いされることすら多いが、どちらが「私」にとってより善いかは、容易に決着できる問題ではない。結局、自分の所属する共同体を存続させるために、個人の自由や欲求に基づいた行動はある程度制限されざるをえないが、その自由な行動を担保し、相互の協力のもとにより善い生きる環境を提示することが共同体の役目であり、自己がその共同体に所属する以上、この制限は無遠慮に批判されるべきではない。要は、個人が自由市民であるためには、社会的義務を果たさねばならないということになる。この文脈で整理すれば、この発言の論点は「女性が子どもを二人以上生むことは、社会的義務の範疇にあるか否か」である。

 

今回のこの1点目の問題について、私が感じた違和感は、この「社会を優先すべき」といった方向性の発話が、反射的嫌悪によって弾圧されようとしている点である。ここからの議論は、非常にデリケートであり、ゆえに本来、大雑把であることは許されないが、ぽっとでのくだらない言説であることをご了承いただきたい。

 

今回の一件をして、「性差別だ!」とか「女性の多様な生き方を否定している!」などと叫ぶ一部言説に、私はあまり共感できない。少なくとも、子どもを生むことができるのは女性だけである。子どもが生まれないことが、今の我々に、あるいは未来の我々を受け継ぎ、支えてくれる子どもたちにどれだけ不利益を生むことだろうか。確かに、近代以降、子どもを生むことと自己の利益の関係が、不可視化間接化し、今の「私」にとって子どもを作ることが不利益となることが増えたことは事実である。過去の賢人たちは、こうした事態一般に対して、個々人の感情に訴求する以外に、「社会的義務」という観念を創造し解決を試みたのではないだろうか。ゆえに、「子どもを生むことは社会的義務の範疇にはない」と早合点し、殊更に個人の権利の主張に反射的にうつる一部言説には共感できなかった次第である。

 

確かに、「社会」からみた言説もあれば、逆に「個人」からみた言説もあってしかるべきである。両者の生む便益を相互に検討しながら、より善い我々の生きる環境を創造していくのが本来の政治の仕事である。しかし、両者の言説は互いに正当性を有している中で、一方を「悪」であるとレッテルを貼り、そうした発言をする人を「問題あり」として迫害することはなされるべきではないと私は考える。極端な話をすれば、ヒトラーであっても絶対悪ではなく、それを擁護することすべてを迫害することは、本来的には不健全であると私は思うのだ。もちろん、人間とは、部分のみを愛して全体を愛さない状態にとどまれるほど確固としたものではない以上、一部の相対的に悪的なる者の、一部の善性を殊更に強調する言説は戒められてしかるべきであるかもしれない。しかし、今回の校長の話は、そんなに正当な、善的な部分が無いかといえばそんなことはないであろう。

 

近年、「教育改革」と称して多様な意見を総合的に勘案しながら、答えのない問題に取り組み、自律的多面的な思考力と発話力を養う教育とやらが奨励されている。失われた10年は20年に表現を改められて久しく、我々の世代が生まれ育ってきた時代が、まるごと失われてゆく中で、自らの先行きについて、自らなりに考える力を1人1人が持とうという指針自体は大変わかることである。しかし、こうした方向性の教育改革を標榜しながら、ある「問題」を含んだ言説の本質を検討しないまま、一面的な正当性を含む言説を反射的に「不適切である」として圧殺していく姿勢は大きな矛盾をはらむ。むしろ、この言説の持つ正当性や問題点を整理し、分析していくことこそ新教育のなすべきことではないのだろうか。

 

さて、1点目の考察が長くなりすぎた。2点目に移る。ここまで読んでくださったあなたに問いたい。果たしてあなたの所属した中学校のある朝礼で、校長がなさった説話の1つでも覚えていることがあるだろうか。確かに、この校長は、念には念を入れてこの話をしているが、そんなことより明日覚える英単語1単語1語のほうがよっぽど記憶に残るだろう。校長の説話とはその程度のものであり、確かに先生は1語1語表現を検討しているかもしれないが、聞く生徒にとっては決してそんなことはないのである。むしろ、こういった話を一生涯忘れないようなものにできる話術をお持ちの校長先生であれば、なお一層のこと退職などなさるべきではない。

 

確かに、この発言は、イデオロギッシュであり、ぱっと聞いて不快な思いをする生徒も多くあるだろう。生徒が不快な思いをする言説は、一切「不適切」であるとするならばこの校長の発言は問題であり、断罪されるべきである。しかし、何度も繰り返すが、いずれ生徒たちが直面するべき問題を、単刀直入に述べているこの発言は、生徒の一時的な不快感をも上回る教育的効果をはらむはずである。もちろん、校長が、この発言のイデオロギーを教員以下全てに強要し、個人の意見としてではなく、学校の総意として発言しているならば別である。しかし、発言内容を見る限りそんなことはない。校長がああいった言い方をして、受取り手が思想強要を感じかねないということもわからないでもないが、むしろその程度の発言で自己の軸をぶらすことのないように普段から教育していくことのほうがよほど肝要である。ましてや、外野の人間が、クローズドな朝礼の一発言をして、「不適切」であると騒ぎたて、学校の業務の邪魔をするほうがよっぽど「教育的配慮」とやらに欠ける行為である。

 

 

個人の権利が重視されるあまり、個人の語る権利が結果的に圧殺され、「臭いものに蓋をしろ」の精神が蔓延しているようにも感じる。「教育改革」を標榜する今こそ、教育現場から、臭いものに面と向かって立ち向かっていかなくてはならないのではないか。私だって、結局こんなところで匿名で発言するくらいしかできないチキンであるから批判するに値しないことは重々承知であるのだが。