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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

暇であることの教育的効果

暇である。暇でなければ毎日こんな長文を著せるはずもない。少しばかりの予定はあるが、それにしても暇である。暇なふりをしている時もあるが基本的に暇なんである。

 

世の中の人々のうちには、仕事でもないのに毎日予定がぎっしりの人がいる。昼までバイトして、サークル出て、誰かとご飯行って、翌日はかれぴっぴとデートして教習所に行って、その翌日はででにーに行くなどといった感じだ。世に言う「リア充」である。あるいは、学生のうち、家計が困っているわけでもないのに、バイトで首が回らなくなるタイプの人もいる。ほぼほぼワーカーホリックであると言えるが、いわゆる「バイト充」である。何はともあれ、全く暇な日を作らない人は世の中自分が思っているよりずっと多いということが最近わかった。

 

全く暇な日というのはえてして邪険にされがちである。布団で昼まで寝て、起きてご飯を食べたかと思えばゲームをしたりYoutubeを見たり、万年床で自堕落に非生産的に生きる日というのはだいたい世間の目が厳しい。やれ勉強しろだ、少しは運動でもしてきなさいだなんだと言われる。確かにこんな生活が毎日続いてはニートまっしぐらであるが、すこしばかりこういう日があるのも「教育的に」善いのではないかというのがぱっと浮かんだアイディアである。

 

人間の集中力というものはもろいものであり、人間というのは案外体力がないものである。自分にとって最高のパフォーマンスが出せる時間というのは自分が思っているよりもずっとずっと少ない。自分は我慢ができないたちだから、一度集中力が切れて手が止まるともう戻ってくることができない。必要に迫られれば徹夜でもなんでもこなすが、そうでもない時は本当に続かない。自堕落に生きる日がないと息が詰まって死んでしまうのだ。

 

自堕落で非生産的であることは、一定の虚無感を伴うが、なかなかに愉快である。真に自堕落であるという状態を現出することは大変に困難だが、世間から一日遊離して生きてみるというのは様々な整理に最適である。私が、様々なことを鬱々と考えながら何らかの思考的体系を自己の中に生み出すのも、大抵自堕落に日中体力を消費せず生きた結果寝られず悶々とする深夜である事が多い。普段の私が相対化され、自堕落な私の本性がそれを自省しようと思うからかもしれない。

 

自堕落な生活が数日続くと、これはこれでまたいい。普段自分から好んでやろうとしないことをやろうかなどという気になってくる。遊び疲れた大学生が突如学問に目覚めるのと似たものを感じるが、大抵こういう自発性は長続きしない。しかし、そうして様々な物に手をつけることで見えてくる世界もある。忙しく過ごしていたのでは決して感得できない世界である。こういった新しい見方を得ることは教育的に、すなわち子どもにとって真に善いことの1つであるのではないだろうか。

 

少し話を大きくする。自堕落で非生産的な行為は批判されがちであるように、社会においてもモラトリアムは批判の矢面に立たされがちである。ある人々は、余暇を、ただの「余った時間」と捉え、「有意義」と画策された物事を、雑然とその余暇に押しこもうとする。猶予を、ただ無為な時間と錯覚し、それを消費しようとする。「有意義」とされることが暇であること以上に有意義であるかどうかの検討などろくすっぽ行われないままに。

 

ゆとり教育が漸次見直されている。ゆとりとゆとり以前の詰め込みを折衷し、新しいICTなどの教育手法を用い、知識の増強と思考力の涵養を両立した新しい体験型学習が創造されようとしている。我々に求められるバランス感覚は、ゆとりを批判することでも、詰め込みを嫌悪することでもない。両者の間の真に教育的効果の高い形を常に考えていく感覚である。

 

暇が悪いことでは必ずしもないように、忙しいことも悪いことではないのである。絶対悪や絶対善が恐らく世の中に存在しないように、全ての物事に、善的な部分と悪的な部分が内包する。その両者を見つめ、ある時は真剣に、ある時はこじつけ的に善なるものを求めていくことが重要であるのではないかとふと浮かんだ次第である。肩をいからせて自分の信じる善なるものを理屈っぽく追い求めるほど悪的な行為もない気もする。