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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

言語化という病理

言葉 雑記 哲学

 私的言語を論うなという話は以前以下のエントリーでしたが、今度は物事を言語化するということが如何に虚無的であるかについて私感を述べる。

semicrystaline.hatenablog.com

我々は、日々生きていく中で我々の体験を言語化し、具体化することが求められる。やれ自己分析だ、やれ自己アピールだと、我々を言語で表現させようとする。また、社会がたとえ求めなかったとしても、我々は、我々自身を言語化しようとする。SNSでありがちな「体験」や「思考」をシェアする行為がその例であり、自らがどれだけ苦労し、どんな思いをし、どんな体験をしたか、大量の時間を浪費しながら発信しようとする。無論、この脳裏の落書きもそんな類のものである。

 

我々は、言語化の呪縛に囚われている。我々は、知らず知らずのうちに言語のうちに自己の感情を同定しようとするあまり、自己の感情や体験を矮小化し、それを言語表現のうちに収めてしまう。他者に理解されたいがために、自らの体験を言語でメッタ斬りにし、くだらない言葉の羅列でそれを表現しようとする。賢者は言葉少なであることを求め、自らのわかること、すなわち自らが他者に対して適切に表現できることのみを表現することを求めるが、愚者たる我々はそんなことで我慢できるほど上出来ではない。我々は自己を理解して欲しいがために、あるいは誤解されたくないがために、却って自己存在を、他者にわかる形で規定しようとし、自己をつまらない凡庸な人間にしてしまう。

 

そもそも、我々の実感は、言葉で表現できるほど小さいものではない。メラビアンの法則とやらによれば、言葉は情報伝達の7%程度の役割しか担っていないという。我々の感情というのは決して「楽しい」や「悲しい」や「嬉しい」で規定されるほど浅はかなものでもないし、他者にどれだけ言葉を尽くしたところで正確に表現できるものではない。我々の感情は、我々のそこにいたるまでのあらゆる経験、他者との係累、その場の空気感など様々な状況が複合して作られる。「万感」などというフレーズがあるが、これくらい大きな単位の言葉でないと我々の感情は表現できない。

 

わからないことは、不安と好奇心を立ち上がらせる。全てのものが、言葉になった瞬間、我々にとって何らかの「わかる」ものに矮小化し、事象の持つ無謬の可能性ときらめきを失う。言語の先にある何かは、無視して良いものとして捨象され、事象はすべて具体化の憂き目に会う。言語化という行為はまさにこうした行為であり、人間特有の病理とも呼べるのだ。

 

私は恐らくこの病理の重度の患者である。私は、私の周りにある何かを全て言語化しなくては気がすまず、その結果多くを捨象し、見ないようにしている。言語化とはすなわち具体化であるかもしれないが、同時に抽象化でもある。現実を言語世界に具体化する作業は、言語世界という理想世界に事象を抽象化する行為でもある。私は私を、私の言語の中で理解しようと欲するあまり、私という存在から離れたもう一つの「私像」を作り上げ、それを発信することに必死である。「私像」は、故に自己性を持たず、ある一定の普遍性を有する。

 

病から人は立ち直りたいと思うものである。私だってこのような屈折した自己承認欲求は捨てたいものである。だいたいこんなことを言語によって思考し続けるからより一層鬱々として深夜を過ごすはめになっているとしか思えない。