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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

ある男子高卒者の青春の形

言葉 雑記

先日、私が高校時代、直接見ることのできた後輩の最後の晴れ舞台を手伝ってきた。そこにある青春のきらめきにはなんとも嫉妬したものである。

 

私は、男子校の出である。「サル山」だとか「動物園」だとかいう呼称のほうが「進学校」やら「普通科高校」なんていう呼称より遥かにしっくり来るような高校だったが、それなりの青春を送れたと思う。

 

ところで青春とは、goo辞書によれば、五行説では春が青色であることから転じて、「夢や希望に満ち活力のみなぎる若い時代を、人生の春にたとえたもの。青年時代。」であるらしい。また、単に「陽春」を表す語でもある。決して夕焼けの午後、JKと二人手を繋いであるく図ばかりが青春ではないのだ。

 

我々の社会では、日々「青春」の理想図が押し売りされる。ドラマやアニメでは、高校生(?)たちが明るくも波乱万丈なドキドキ高校生活を送り、ちょうどこの頃のテレビは、甲子園で部活に明け暮れる球児たちの高校生活を伝え、だいたいセットでどちゃくそ可愛いチアとかマネージャーとかを写し、学校一丸となって戦っている感が放送される。我々に見せつけられる「青春」の図は、動物園出には少々まぶしすぎるのだ。

 

では、「動物園」に青春はないのだろうか。あるいは、青春の在り方というものはメディアが押し売ってくるものばかりなのだろうか。確かに、私だってああいう所謂リア充高校生活を送りたかった気持ちが無いでもない。しかし、男子校にだって青春があり、私のように、男子校的でもない風変わりな青春を送る高校生だっていたのだ。

 

巷では、男子校は「くさそう」だとか「実直」だとかそんな言葉で形容されることが多い。大変に的を射た指摘であり、それらのイメージこそがまさに男子校における青春である。我々の内で、「彼女ができる」などという夢や希望を確固として抱くものは少ないが、男子校では日々、本当に信頼できる同姓の仲間とともに、ひたむきに物事に打ち込み、馬鹿をしあう、まさに若さゆえの楽しみを謳歌してきた。男子だけであれば、自分の性格や思考をいちいち、かくかくしかじかの◯◯であるなんて言いあわずとも、だいたい認識できるものであるし、常に会話していなくても「友達感」を継続できる。異性とでは、この境地に至るまでどれだけの修練を積まねばならぬかわからない。そういった意味で男子校とは、なかなかに特殊な、しかし気楽で間違いなく素晴らしい青春をおくれる場である。

 

私の青春は、男子校の内にももちろんあったが、男子校の外にもあった。私は、いろいろな学校の生徒と関わることが多かった。共学や女子校男子校が入り乱れ、いろいろな話をした。関わると言っても毎日関わっていたわけではない。ただ友達としての関係を容易に継続させながら、まれに集まり様々な物事を企画し実行していた。今となれば稀有な環境である。

 

私は、高校時代、大変にエネルギッシュだった。大変な時間を様々なことに心血を注ぐことに用い、押し売りされる青春とは違う形の青春を謳歌した。様々なことを為し、様々な人に迷惑をかけ、様々な感謝を応酬した。恐らく今までもこれからもないであろう稀有な環境で、あんなにもひたむきに3年間を生きてこられたのである。私と同じ道をたどってきた後輩たちの晴れ舞台を見て、なんとも辛く陰鬱として、それでいて懐かしくて純的な感情が私に去来した。私がああであったことが、大変に羨ましく、後輩がそうであることに嫉妬し、「人生の夏休み」という虚栄に包まれた現状を悲観し、彼らの歩いて行く未来に同情した。それでいて、私の歩んできた道が肯定されるような、激しい自己肯定感の充足を感じた。「青春」とはどうやらこんなものであるらしい。

 

私は、私の青春の爪あとをいたるところに残したかった。後輩のうちに、資料のうちに、学校のうちに、いたるところに私の存在証明を残したがり、そのために大変に努力した。しかし、春は毎年訪れ、いくども花は散り、「春」の思い出に還元されていくように、私の青春の爪あとは、「私」という存在から遊離して数多の青春を過ごした「我々」の爪あとに還元され、埋没していった。「青春」を眺める行為は、これらの失われていく「私」の青春の記憶を、再び個人に還元して、自分語りをさせるらしい。後輩たちよ、ありがとう。そして、おめでとう。ネットの片隅に備忘録のように書き記しておく次第である。