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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

何かから卒業するということについて

今週のお題「卒業」

 

脳裏の落書きというものは、一つのワードを見るだけで無駄な妄想を働かせてくれるものであり、ミーハーなタグにも反応してしまうものである。

 

「卒業」とは新字源によれば、①事業を成し遂げること、②所定の課業を修め終えることであるらしい。ちなみに卒の字は、疾(つい)に通じ、終わること、つくすこと、つきることなどを表し、業の字はいわゆる行いを指す。字義どおりに取れば、「何らかの行いを終えること」と定義できるだろう。

 

公教育制度を普及させている日本であれば、誰もが何らかのものを卒業したことがあるであろう。私もご他聞に漏れず卒業を経験している。ここでは高校卒業の話をしたい。

 

私が高校を卒業してから、まだわずかな時しか立っていない。もちろん1週間前とかそういうわけではないが、人生の中で見ればわずかといっていい時間しか立っていないのだ。私はたしかに文科省の定めるところの高校の課程を修了したし、卒業もした。しかし、私が高校生としての行いを終えられているかといえば、なかなか疑問である。

 

最近一曲の歌にハマっている。DAOKOの「JK」という曲である。歌い方や旋律ももちろんだが何より歌詞がいい。本当は全編にわたって引用したいくらいなのだがいろいろと具合が悪いのでおぐぐりいただきたい。この曲が暗示する、JKから飛び抜けた「私」のJKという存在への執着と憧れに強く惹かれたのである。もちろん私は動物園育ちのDKであったから、「やばいJKまじかわいい」とかそういう話しか高校時代してこなかったわけだけれど、不意に高校時代を思い返させるのにこの曲は一役買った。

 

高校という場所はなかなか不思議な場所であった。全く違う人達が、似たような格好をして一つの箱に放り込まれ、同じことを刷り込まれる。毎日少なくとも8時半から15時半まで、ひとところに他者が集まってきて共同体を形成するのである。過去は美化されるというが、それにしてもあのキラキラとした純粋さは一体何なのであろうか。大学に入ってますます心が汚れるばかりである私には高校時代が、あまりにもまぶしすぎるのである。

 

高校生であること、これはなかなか有利である。何よりまず娯楽が安い。映画が特に安い。飲まないから飲み代もかからない。制服を着れば「身分」を得ることができ、何がしかの学内での「地位」もまただいたい得られる。高校生としての行為は多分にこの「身分」に立脚する。私は、高校時代には、一端の学校の中での何者かではあった。私を示すものは、名前と所属以外にもあり、それは高校という共同体の中で、自分を特徴付けるに足るものだった。また、社会の中で、「制服」は自己を特徴づける最も有用なものであったわけである。その何者かとしての儚い行いこそが、高校生としての行いだったのではないかと、夢想している。

 

ひるがえって大学である。大学構内を歩いていて、もし自分が超有名サークルの幹事長であったとして、それを名乗られずに気づく人がどれだけいるだろうか。体育会野球部のエースが歩いていたって大半は気づかないだろう。大学は、自分が何者でも入れない空間なのである。いわば路傍の石、構内ですれ違うかわいいJDと私は、同じく他者であり、何者でもないのだ。また、まだキャンパス内であれば大学生と認識されるが、一度街に出れば、自分が大学生で有るかも、まして☓☓大学の学生であるなんてことはほとんどわかりっこないわけである。アイデンティティは拡散する一方なのだ。

 

私が卒業できないこと、それは自分が「何者か」であるという意識からである。私は一応、超不まじめなせいとかいちょーであったから、一端の学校という社会の中での地位は有していた。私は、同級生にとって非代替的な存在であったと信じているし、私にとって同級生もまた非代替的な存在であったし、今でもそうである。そんな甘美な実存的交わりとやらを経験してしまったからには、そういう交わりを求めようと行いを続けてしまうのだ。私は、高校からは卒業したが、高校生としての意識からは残念ながら卒業できていない。

 

卒業とは、字義から言えば、業を終えることである。しかし、世の中そうすっぱり終えられる業ばかりではない。人と人とが関わることには全て、業が起きるが、その業とは人が関わるからこそ終わりのないものになる。何かから卒業するということは、極めて表面的な終わりを示しているだけであり、心からの卒業というものは、一種の諦めにも似た、非本来的な自己否定に過ぎないのかもしれない。