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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

受験志向の進学校について

図書館でほぼ寝かけながら、Twitterを眺めるという至極非生産的な行為をしていた時にすごい画像を見つけてしまった。「翠嵐高校」などでツイッター検索すれば出るかと思う。

 

神奈川県立翠嵐高等学校の進路指導資料だという。まず高校入学時の15の若者を「タブラ・ラサ」と定義し、高1からの多量の勉強時間を課し、本当にそんな暇はありますか?と煽る。生徒全員に東大を志望させ、全員国立型の受験をさせるという。なんと素晴らしい教育論だろう。私が今までもそしてこれからも、人生で間違いなく至上の時間であったと確信しているあの高校3年間を、5教科7科目のカリキュラムに縛り付け、偏屈な知識を詰め込ませることで、東大に入学できる高い教養をもった一人格を育成するという。大変結構な話である。おそらく生徒はそううまく従わないだろうが、このような素晴らしい教育論を礼賛せねば教育学の徒として甚だ不誠実であると感じるので、この教育論とやらをメタメタに礼賛したいと思う。

 

ここ10年以上のスパンの話だが、進学校のトレンド変化が起きている。旧来からの自由を標榜した学校の保護者からの人気が低下し、反対に、しっかり勉強させてくれる学校の人気が急上昇している。ここ数年、そうした人気を背景に入学する良質な生徒を叩き上げ、受験実績を伸ばしている学校に、池袋のぽっぽや南武鉄道の生みの親の男子校がある。このトレンド変化にはいくつか要因があるが、一つは、先行き不透明な世の中、子息を確実に良い大学に入れることを最優先に考える保護者の志向であり、もう一つは「自由」や学校生活の楽しさを売りにした学校のパイが台頭した都立各校に奪われたということもあるだろう。さらに言えば、旧来の進学校は浪人に寛容であり、七年一貫教育とも揶揄される教育を行っているが、現代社会が浪人に不寛容化しているということもあげられる。翠嵐高等学校も後者の例にもれない大変熱心な教育論をお持ちなようである。

 

私は、旧来的な進学校の出で、心からそういった高校を卒業できてよかったと思っている質だが、新興的な学校が一概に悪であるという気は毛頭ない。そもそも中等教育機関に対する可視化された評価基準は、「進学実績」くらいしかないのだ。ほぼ遍く中等教育機関の評価は受験実績によって決定されるならば、この実績向上に注力しようという動きは至極わかるところなのである。学校法人がいくら公の性質を有していたとしても営利と無縁でいられないことは自明である。実際、しっかり勉強させる高校に子息を入学させ、子息がきっちり名だたる旧帝国大学早慶に入ってくれれば保護者の皆様としてはこれほど安心なことはないだろうし、そうした需要に対して相応の学びの場が供給されることは経済のけの字にも入らないような大原則中の大原則である。

 

さて、学校教育の商業主義化を擁護するのもこれくらいにしておこう。そろそろこの素晴らしい教育論を礼賛するときである。

 

学校教育の目的は、「一個人の社会的自立」である。社会的自立、それも自由市民としての社会的自立のためには、自由市民となるに足る教養や自律的論理的思考能力、発言力、社会の義務を履行する能力などが求められる。これらの能力を総合的に醸成することが学校教育の目的なのである。この本来的な目的に立ち返って、中等教育機関を評価するとき、間違っても「進学実績」だけがバリューでないことは明白である。その機関の卒業生の総合的な人格を以って本来的には評価されるべきなのである。

 

私が絵空事を述べていることは重々承知である。そんな卒業生の総合的な人格を一様な基準で得点化し評価するなどという行為はおそらく一神教絶対神でさえなされないことであろう。人はそんな単純なものではない。しかし、中等教育機関の評価手法が不当であると指摘することから導きたい結論は、だからそれを改善せよと叫ぶことではなく、だから中等教育機関の第一義は大学受験では断じてないということである。

 

されど大学受験、たかが大学受験である。大学受験はなかなかうまくいかない。大変な時間を費やさねばならない。そんなことは高尚な教育論を唱えなさる先生方と同じくらいわかっているつもりである。しかし、大学受験は絶対の目的化されるほど高尚なものではないと思うのだ。ましてや、人生至上の3年間を費やすに足るようなものでは断じてない。

 

人生至上の3年間を捧げて手に入れることができる人生の夏休みと呼ばれる4年間がいかに空虚であるかは別の機会に述べるが、ともかく、高校時代というものはかけがえの無いものである。まず、高校ほど、私が多様な人材に囲まれたことはない。同じクラスに岩石オタクがいて数学オタクがいて哲学オタクがいてゲーマーがいたかと思えば、野球部のエースがいてインターハイに進出したテニス部員がいた。学年、たかだか300人である。皆が学内において何者かであったのだ。また、高校時代の友人ほどかけがえの無いものもない。思春期の、どこか肩張っていて垢抜けない成長の時を共にした友というのは金輪際現れるものではない。皆がお互いの成長過程を見つつ、それぞれのペースで大人とやらになっていくのだ。私にとって高校はまさに第二の母なるところ-母校-であった。

 

人は様々な役割期待を内面化しながら社会化していくという。あるテーゼはアンチテーゼをもってジンテーゼへと止揚するように、人の魂も社会化していく自己に対して多数のカウンターカルチャーを経験することで真に成長していく。生徒が多様であり、真の紐帯を有したお互いがお互いにとって何者かであると認め合いながら自立する、限定された共同体は高校を除いて他には形成されないのではないだろうか。

一通り、自己の経験を美化して高校をかけがえのない場所と定義したから次に進もう。すなわち、高校を、生徒たちにとって上述のような真にかけがえのない場にするにはどうすればいいかということについてである。まず1つ目に、高校という社会において、個々人が幾つかの役割を得なければならない。友人の間の道化役であることも立派な役割であり、あるいはガリ勉キャラであることも立派な役割である。部活動や委員会の幹部であること、何がしかの係であることもまた役割を付与するに足る。これを奨励し、これを務め上げることを支援し、自分が何者かであって何かをやり遂げたのだ、という経験は社会的自立(≒社会化)のために極めて重要である。2つめに、生徒を多様化させなければならない。高校生にもなれば得意不得意がはっきりして、好きこそものの上手なれの如く、幾つかの事柄についてニッチに知るようになるものである。その芽を潰さず双方にとってのカウンターカルチャーとして機能するよう、サポートし好きに学べるような環境を作っていくことが寛容である。第三に、生徒を学校という共同体に縛り付けないことである。高校はあくまで帰ってくる場所であればよいのであって、ずっと縛られる場所では断じてない。高校生ともなれば様々な場所に自分なりの共同体を持つようになるだろう。それらは生徒個々人にとってもかけがえの無いものであるに違いないのである。

 

さて、私は、高校がいかにかけがえの無いものであり、これを盛り上げるためにどうすればよいかについて2,3思索を終えた。翻ってご高説に戻って逆に問いたいのだ。「そんな暇はあるか?」と。すなわち、高等学校のカリキュラムの勉強にのみ生徒を縛り付け、3年間も費やさせる暇は、子どもにとって善い場所であるはずの教育機関にも、生徒たちにもないのである。

 

そもそも、3年間もあの程度のカリキュラムに打ち込んで得た成果が東大合格というのはあまりにも寂しくはないだろうか。もっと言えば、それで全員東大に合格できなければ悲惨も悲惨である。3年かけて受からないのなら、おそらくその子は人よりずっと能力がないことが露呈するだろうし、たとえ受かったとしても滑り込みで受かるような受かり方では所詮その程度の能力しかないのだから、そこには他の受験生たちとは比べ物にならない溝があるわけだ。(これは全て負け惜しみである)

 

また、5教科7科目を詰め込まれることで得られる教養というものも甚だ怪しい物がある。私は返す刀でエリート層くらいせめて数学と地理と哲学はやれ!と叫ぶつもりであるのだが、どうしても苦手な人に苦手なものを習得させるほど骨の折れることはこの世にないのである。世の中には大の数学嫌いがたくさんいて、そういう人たちにいくら数学の問題を説かせたところでまさに彼らにとっての時間の無駄であり、そんな暇は彼らにはないはずなのだ。もちろんその科目のいろはや思考法について知ることは必要である。しかし一様に全教科を大学受験レベルまで育てようとすることは手段の目的化にほかならず大変愚劣であるといえるのだ。

 

ただひとつ、この進路指導資料を以って翠嵐高校が特別つまらない学校で、入るに値しないなどという気はない。ただこのような勉強のさせ方に違和感を感じたから長々と掃き溜めただけである。高校という場所は、もっと他に可能性を秘めていると思うのだ。