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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

「保育園落ちた日本死ね!」問題の滑稽さについて

時事 言葉 哲学

巷で「保育園落ちた日本死ね!」というエントリーが話題をさらって久しい。遅きに失した感があるが、事の顛末が滑稽過ぎてあまりにも面白いので、自分の言葉で書き表したくなり、記す次第である。ここは掃き溜めである。私的言語が許されて然るべきなのだ。(ここで用いる私的言語は、それによって表出される意味が私によってのみ真に理解しえる言語の意である。日本語だったら日本人誰だって理解可能じゃないか!とかそういう話は又の機会に)

 

私は、今、まさに前文で、私的言語は許されるべきである、と述べた。「保育園落ちた日本死ね!」のポストはまさにこの私的言語をもって行われている。わずか数百文字の文章から伝わってくる現状への切実な怒りと無念を慮ることはできるが、私はそれを真には感得し得ない。また、公的性を志向したにしてはあまりにも語調が激烈に過ぎる。公的に保育園の待機児童問題を真剣に論じるのであれば、種々のデータを用いて頭の痛くなる語調を用いなくてはならないと相場決まっているのだ。

 

ここに滑稽な第一の点がある。この極めて個人的な感情を吐露したポストを公の場に吊し上げ、あれやこれやと議論すること自体がすでにナンセンスなのだ。挙句陰謀論まで飛び交い、「便所の落書きである」なんてかしこまって当然のことを公人が言って袋叩きにされる始末である。件のポストの筆者は公的性を志向した言葉でブログ記事を焼き直してTwitterに発信しはじめざるを得ず、まさに大事と言った感じである。大変おかしい。

 

第二に、このブログを待機児童問題の旗印にしようとしていることも甚だ滑稽である。もともと旗印になることなんて微塵も目指していないポストである。このポストが端緒となって広く待機児童問題が解決に向かうことは素晴らしいことと思うが、旗印にすることはないだろうと思う。これまで待機児童問題なんて見向きもしていなかった活動的な方々がこれを旗印にして何やらしているが、そのせいで待機児童問題が色眼鏡をかけて見られる始末である。

 

第三に、これで実際に政治が少々変わりそうである、という点も大変滑稽である。待機児童問題は、件のポスト以前から在京キー局はじめ多くのメディアで報じられてきたところであり、横浜市を始め自治体も対策に乗り出している、近年のトレンドとも言っていい問題の一つである。にも関わらず、ネットの片隅の匿名ブログ一本が国政を少し変えるかもしれないという事実は、大変滑稽で愉快である。(もちろん選挙前だから等複合的要因が絡み合っているのは重々承知しているつもりである。)

 

私は今、件のポストをした匿名ブロガーの心中を慮って一人心から同情している。彼女もまた、待機児童問題の犠牲者であり、その改善の一助に自分の書いた文章が使われることは、気恥ずかしさこそあれ悪くない気分であろうと邪推する。しかし、こんなにも騒ぎ立てられ、こんな場末でさえ心中を邪推され、あることないこと書かれて、気の休まるわけがないのである。ぜひこれからもその文才を活かして強く生きてください。

 

さて、滑稽さを述べて私が何を言いたいかといえば、全く待機児童問題とは関係なく、私的言語を論うなという話がしたかっただけなのである。他者の感情や体験はまさに私的な、非代替的なものである。それについてどれだけ推察したところで結局それは邪推でありナンセンスであり下世話なのである。他者が私的言語を読み、自分なりに意味を考え、それが示唆し提起する問題について論じるのはいい。だがその表現する真意や感情、その裏に潜む何かしらまでわかったつもりで書きたくって表明したり論じたりするべきではないと私は思う。やりたくなる気持ちは多分にわかるところではあるが。