ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

国立落ち私大文系の話

ほとんど最初のブログ記事がこんなものでよいのか大変に甚だ疑問であるが、書きたいのだから仕方ない。掃き溜めは元来そういうものだ。

私は、所謂国立落ち私大文系である。相応にコンプレックスがあり、相応に今の環境に満足している。そんな私の思い出話と、国立落ちへの自分の中に去来するメッセージを書き散らしたい。


私は、国立大こそあと数点だったが、私大対策を全くせず受験に突っ込んだ結果受験学部にあらかた落ち、ストレート合格は一切もらえず、補欠で拾ってもらった身である。そんな私の思い出話とささやかなメッセージである。

私の出身校はそれなりの進学校で、生徒の9割は医学部か国立志望、私大理系はおろか私大文系を第一志望にする学生など両の手の指で数えられるくらいの数しかいなかった。文理の比率でも理系のほうが多いくらいで浪人も当たり前、古き好き進学校という感じである。そんな進学校にありがちなことだが、高2までろくに勉強もせず遊び、とりあえず国立大学を目指そうとして失敗する学生があとを立たない。私もその中のひとりだった。

私が国立大学を志したもう一つの理由、それは「英語」が苦手なことからだった。受験科目が多ければ必然的に英語の得点比率が下がり、社会や数学、現国漢文くらいなら人並みよりちょっとできる自分に有利だろうと、そんな算段だった。

 

高3になってからはそれなりに勉強した。家では一切やらずゲームばかりしていたけれど学校のある平日は4時間、休日は図書館や自習室で6時間はこなし、受験前はもう少し頑張った。ただ、勉強していると言っても誰かといっしょにやるという名目でだべりながら数学を解いたり、英語から逃げまわったりとなかなか真面目な受験生とは呼べなかった。しかし、センターは早稲田社学のセンリにギリギリ届かないくらい、過去問では志望校にも受かる点数をとっていた。判定は冠模試ならB判定とC判定の狭間、ほかならD判定とE判定の狭間、国立合否ラインぴったりという感じの受験生活である。

結果は上述したとおり、惨敗とも惜敗ともつかぬ、ともかくも成功とはいえない形で終わった。もう一回繰り返したら成功したかもしれないけれど、如何せん英語ができないのが最後まで尾を引いた。世の受験生諸君、数学と世界史がいくら出来たって私大も国立も受からないぞ。

国立合格発表の時、私はいわゆる「全落ち」だった。友達と人並と浪人をひっかけた川柳を読んだり駿台と河合の資料を取り寄せてどっちが安いとかいってみたり、そんなことをして過ごしていたのを覚えている。補欠もここ数年出ていなかったから半ばあきらめていた。そもそも高2まで遊んでいた身、校内偏差値が50を超えたのもつい最近、現役はチャレンジと思っていたからまさに人並み(一浪)になる感覚でショックも少なかった。

 

ちょうど今頃の季節、合格をもらったことを覚えている。昼まで寝ていて起きたら発表の時間を過ぎていてまた不合格だろうと思いながら見たら受かっていた。なんとも拍子抜けである。進学しようか迷いながら、今年の自分の国立の点数を思い出し3秒位逡巡して進学を決めた。合格をもらったのはとりあえず日本に名だたるW大学である。高校の教員に電話したら「進学するの?」と聞かれる辺り自分の出身校もトチ狂っていると思うが、まあなんだかんだ国立もW大学も変わらないだろうと思った。幸い家庭に多少の余裕はあるので学費の心配はしなくてよかったのもある。

入学後はすこし戸惑ったものである。入学後は自然と他のどこの学部を受けただとか、他のどこの大学をうけただとか話題になる。国立を目指していたというと一様に驚かれるし、頭良さそうとか言われるのだ。その実、入試の点数がそこまで良いわけでもなし、補欠であることも言い出せず妙にコンプレックスを抱いた。自分と同じような成績だった高校の友人が国立に受かったのなんかよりよっぽどこっちのほうが堪えたものである。

私は、W大学にはすこしばかり期待をしていた。一応某宗教法人チックな大学と拮抗する日本随一の私大である。自分が高校の時分やっていたような妙なインテリと猿みたいな知能を合わせたそんなクソみたいな会話ができる奴が沢山いると思っていた。さらに言えば、もっと学生の数は多いから、その妙なインテリがもっと醸成されて唸るような一言説垂れる奴がいると期待していた。期待していた、と過去形で書くということはすなわち、そんなことはなかったという今の裏返しであることは言うまでもない。(言うまでもないと言っている時点ですでに言明しているし意味もなく文字を量産している、なんとも頭の悪いレトリックである。)

私は思い悩んだ。地理の話を、数学の話を、哲学の話を、その素養だけでも感じさせて、それを少しでもバックボーンにしてばかみたいな話をできる人がいないのだ。あるいは、何かを少しでも考え所謂くりてぃかるしんきんぐ(カタカナは恥ずかしい)をしたことがあると思われる人も少ない。もっとひどいことに、受験でやってきたはずの日本史や世界史、政経すらバックボーンとして話をできる人すら数えるほどなのだ。高校にいた時分、毎日ばかみたいな会話の中で生まれた、大小のくだらない、しかしきらきらした原石の断片を集める知的好奇心みたいなものをそそられることは残念ながらなかった。

 

これが天下のW大学の学生か、と思った。別段、日常の会話が全てそうであれなどと言う気はさらさらないのだ。「あの女の子くっそ可愛くね?」とか「あんな課題だすとかまじだるい◯◯はクソ」とかそういう会話が大半でいい。けれど、会話の節々で感じる教養(笑)くらいは欲しいと思うのは私だけだろうか。これが国立だったら文系でも数学お化けや地理オタクがいて、学生の全員はいやいやながらも数学にマジメに取り組んでいて、入試を地理で受けて地理の素養がしっかりあるやつがいたかとおもうとこのことが一番気がかりだった。地理と数学を、哲学やらと並べて論じる理由は長くなるので又の機会に述べるが今の所謂私文に足りない教養No.1であることは間違いない。

 

さて、私の、進学校の中でも更に変態チックな学校を卒業してしまったがゆえの苦悩はどうでもいい。私はもうW大学の学生なのだから未練など捨てて、生きていくしかないのだ。そう決意したのは入学後1ヶ月、いろんな人と少しだけ話してみてからのことである。その期間も、どうにも自分なんかより大変な時間を勉強されて、満を持してW大学に合格なさった皆様が受験の鬱屈を晴らすように遊びまわり、新環境に元は真面目だった子も元からやんちゃな子も一緒くたに浮ついている空気感に馴染めず、図書館のひっそりとした片隅で塩野七生ローマ人の物語を読破しつつ、たまには仮面を被って浮ついたふりをして、サークルを探したりとりあえずぼっちを打破したりしていた。

 

私のこの、「要は君たちに絶望しているんだ」なんて類の悩みは、もちろんぼっち打破のため作った急ごしらえの友達にできるはずもない。私は鬱屈として高校時代からの先輩にこの話をしてみたり、高校の同輩に喋ってみたりしたものだ。そんなことをしても現状が改善されるでもなく、半ば諦めを持ちながらとりあえず目の前のことに取り組もうともがき始めたのが6月ごろだっただろうか。ささやかな趣味を一つ持っていたからその趣味を共有できるサークルに入ってそれなりに活動に参加したり、教室内で友達と仲良く喋ったかと思えば大学の喧騒から逃れるように図書館で逃避行したりしていた。

 

結構な期間、こういう生活をしていた。アルバイトは不定期だったから別に忙しいこともなく、不真面目な大学受験期の半分くらいは勉強しながら趣味に深入りしたりゲームをしたり、ある意味自分のやりたいように生きていた。実をいうと今もこんな生活が続いている。変わったことといえば、急ごしらえの友達が、それなりの友情という紐帯で結ばれたそれなりの友達になった(と信じたい)ことである。相変わらず諦めは続いているし、その後もう一回受験し直そうかなんて考えたことがあるのも事実だ。

 

 

思い出話が長くなった。ここからは、恐らく誰ひとりとして国立落ち私文には届かないであろう掃き溜め的メッセージである。

 

君の入る私大に、恐らく君が受けようとして届かなかった大学の学生の中間層以上に突出した学生は一人もいない。君がしてきたよりもずっと長い時間勉強してきた人はいるだろうけれど、君がしてきたように、何教科も横断的に体系的に学んできた人は君と同じ境遇の人を除いていない。殆どの場合において、一番「できる」のは君と同じ境遇の人で、君の高校にはいたかもしれないこいつには勝てないと思えるような天才は恐らくいない。

 

君は多くを諦めるだろう。そして、選択を迫られるだろう。他の同輩とともに、浮ついた空気に身をやつし、自分の勉強してきた周りとは違うことを全て捨て、所謂楽しい大学生活を満喫するか、他の同輩とは少しだけ離れた位置に立って、自分にとってのこの大学での善い生活を模索するかを。恐らく両方の道は、両方共相応に険しいに違いない。どちらを選ぶかは君次第だ。

 

ただひとつ、大変良いことがある。君の入る大学は、君の入りたかった大学と、恐らく同じレベルの機会は提供してくれるだろう。学生の相乗効果によって生まれる学びだけは恐らく異質のものとなるけれど、学部生が学びたいと思った時に使える本や教授の豊富さなら国立の文系には恐らく負けない。上野千鶴子に習いたかったんです!!!!!!!!とかない限りまあ大丈夫だ。学びたいと思えば手段は沢山、もしかしたら国立大学より豊富に用意されている。使うのは君次第だ。授業の質だってそう大差ない。後ろの席がうるさくて教授の声が聴こえないなんていう小学生の教室並みの現象が発生する以外は特に差異はない。

 

私は、今の環境に程々に満足し、程々に妥協している。これこそが鬱屈とした自分の脳裏の掃き溜めである。今はそれなりにすっきりして、程々に晴れやかな気分である。