ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

詰め込み教育は悪か

たまに、Facebookのタイムラインなどを眺めていると、変に最近の潮流に毒されて我を忘れたのか、身内でも殺されたかのように詰め込み教育を敵視したようなポストを見る。確かに過度の詰め込みには批判されるべき点も多い。詰め込み教育によって学校のプログラムが魅力的でないものに感じられるようになって、そこから離れてしまう子どもが後を絶たないという意味においても、それは単に効果のない教育方法であるという点を超えて、放置すればどんどんと悪さをする毒であり、早急に消毒されねばらない、という議論にも一理ある。しかし、本当に詰め込み教育は悪いことばかりなのだろうか。あるいは詰め込み教育は本当に必要ないのだろうか。

 

これからは、知識をどれだけ覚えているかではなく、知識をどう使えるか、その行動の帰結でもって人を測るべきであるという意味の、コンテンツ(知的内容)ベースからコンピテンシー(能力)ベースへの移行なんてことが教育界で声高に叫ばれている。こうした線に沿ってOECDは積極的に発言し、そうした発言にも影響されて(端的にはPISA型学力に志向して)学習指導要領は改定されるなど、世界的な教育改革の流れが形作られつつある。大抵こういう時に、旧来からの教育は、時代遅れの悪者扱いされるもので、極端な方に振れる場合が多い。そして揺り戻しが起こって中庸に落ち着くか、結局保守化して終わる、というのが常である。

 

そもそも、こうした転換は、歴史的に見れば、100年以上前に米国に端を発した新教育的学力観への再度の転換であると言える。新教育的なるものがどの程度、日本やアメリカ、ヨーロッパにおいて時代を超えて普遍的に継承されたかという評価の点になると、私は論ずる能も知識もないので言及を差し控えるが、少なくとも今の日本において、大正自由教育、戦後新教育、ゆとり教育と何度か新教育的学力観が導入されようとしたにも関わらず、学校現場がそういうように作り変えられていないことは事実である。(歴史的経緯を触れると専門に足を突っ込んでしまうので触れない)

 

何がいいたいかと言えば、今は過渡期であり、私がここで記そうとする言説は、極端に振れがちな過渡期にあって、その中庸的揺り戻しを企図したささやかな反論として位置づけられるということの確認である。私には、どうしても詰め込み教育を絶対悪として見ることには違和感があるのだ。

 

 

コンテンツベースからコンピテンシーベースへという議論の中でしばしば提起される疑義は、コンテンツ無くしてコンピテンシーは形成しうるのか、という根本的問題である。言い換えれば、卵が先か鶏が先かという問題で、知識内容があって始めて能力が身につくのか、能力があって始めて知識内容が身につくのか、という新しそうで古そうな問題である。どこかこうした問題を聞いていると、イギリス経験論と大陸合理論における論争を思い出し、カントによる折衷を思い出すが、無能がばれるのでここでは論じない。

 

こうした批判には一定の解が大抵与えられる。冒頭でも確認したように、単なる詰め込み=知識が先、知的能力があと、とする教育は、子どもがなぜこうしたことを学んでいるかという目当てを理解できず、モチベーションアップに繋がらないため、教育効果が低いばかりか、教育不信さえ生みかねない。実際生活に基づいた能力を意識して、それを使ってみることから始めて、コンテンツを肉付けさせていく教育は、モチベーションアップにつながりやすく、教育効果が高い、と。だから、先にコンピテンシーありきで教育を考えていくべきである、という議論である。

 

一分のスキもないような議論であるが、しかし、この解は、「コンテンツ無くしてコンピテンシーは育成できるか」という疑義に答えきれているわけではない。そこには、後者的に育てられたコンピテンシーが、果して本当に求められている「コンピテンシー」といえるのかという問題が残されている。

 

「新教育的」実践においても、基礎的知識の学習は本来、その前提として考えられる。ただ、教科的知識→合科的認識と進むのではなくて、合科的認識(経験に基く)→知識と進むことで、教育効果を高めよう、という教育改革である。しかし、多くの場合、「知識」の必要が軽視され、「実無き雄弁」ばかり育てる羽目になる。

 

この例から少しは感じ取っていただけるように、最初に子どもたちが知識の幹として獲得していたコンピテンシーは、根本からして実の無い、知識獲得によって反省的に改善されねばならない存在であるという点が、しばしば無視される。現時点で、誰も、どれくらいの量のコンテンツが、人々に期待されるコンピテンシーの基礎として必要なのかはわからないのである。ある意味、コンピテンシーというのは青天井であって、例えば「自律的に活動する」と言うコンピテンシーOECDの設定するキー・コンピテンシーの1つ)であれば、最低限のメディアリテラシー(これがどの程度にあるのかもわからないが)と、社会的知識及び態度があれば、人々は自律的に活動できるかもしれないが、その活動は、「自律」したつもりであって、実は社会的構造等によって意図された他律的な活動であるかもしれない。(「自律的」に「社会利益」に向かって行動できることはいいことらしいが)こうした内容から自律するためには、もっと高度な抽象的概念とそれを導く膨大な先人の蓄積を辿り、それを相対化して内面化することが必要かもしれない。学問という山を登り始めると、今まで自分が如何に低い次元でしか物をみえていなかったのかわかるが、依然高みがあることは容易に想像できるし、ここまでの歩みも、これから進んでいくことも相当な「詰め込み」にもとづいていることも理解できる。学問の山を登るとは、今まで関係ないと思っていた物事を繋げ、それを足がかりに前に進んでいく行為でもあるからである。

 

 

さて、議論の筋がみえてきた。私がここで指摘したいことは、コンピテンシーベースの新しい教育において、詰め込み教育は本来否定されるどころかか、より重要になるという見通しである。確かに、詰め込みありきで、その内容の豊富さばかりを競う旧来の教育は批判されるべき事も多い。そして、過激なアンチ詰め込み教育論者たちは、現代は情報化社会で、コンテンツなどググればすむから、むしろググるコンピテンシーメディア・リテラシーとも言う)にフォーカスして教育を行なうべきで、詰め込み教育などムダであると吐き捨てる。しかし、私の見立てでは、詰め込み教育は益々重要になるように思われる。それはなぜか。

 

 先日亡くなった私の塾時代の恩師が、しばしばエリート教育における「三ム主義」を提唱していたのを強く覚えている。すなわち、エリートの学習というのは「ムダ・ムリ・ムチャ」をする学習であって、効率化、内容の精選など愚の骨頂であるというのだ。高いコンピテンシーの育成が求められるエリート教育において、むしろムリ・ムチャをして、ムダな知識を詰め込むことはその教育的前提であって、三ム主義的学習を経て得た膨大な、一見関係ない知識を頭のなかで連結させてこそ高いコンピテンシーの育成のためには重要であり、そこを排してエリートを語るなという指摘である。

 

旧来的なエリート教育が論じられていた時代からみると、随分時代は「進歩」した。今や一昔前、エリートにしかせいぜい期待されていなかった能力が、すべての人に求められる時代である。もちろん一昔前と比べて、随分コンテンツにはアクセスしやすくなって、物事を結び付けて観察する目を養いうる環境は増えてきた。しかし、そのコンテンツは玉石混交、あまりにも雑多であり、それを批判的に払い分け、真により近いコンテンツを選び出す能力の必要性は日増しに高まっている。あるいは、その記述が前提とする知識を認識するには相応の知識に基づいた知的基盤が必要不可欠である。この基盤的なところまで一々ググっていたのでは、いくら時間があっても足りない。というか、その知的基盤を構成する塊は、一朝一夕の検索や何かで身につくような軽薄な能力ではない。高い次元で批判的思考をしようと思えば、勢い、詰め込みは極めて重要であり、コンテンツが氾濫する現代に合って、それはますます重要性を増している。

 

確かに、詰め込みから始まり、詰め込みに終始する教育は批判されるところも多いが、一点、大学に入ってから擁護すべきと考えたこともある。それは、高校時代などでがむしゃらに覚えていた単語的知識が、資料を読み進める中で有機的に結びつき、生きた知識へと変わっていくということである。ひどく具体的な話で申し訳ないが、世界史を履修していなかった学生が、必修で西洋教育史を学ぶ時に、一体どの人がどれくらいのインパクトを残した人なのか全くわからず、あるいはその時代がどんな時代であったのか理解することが、わずか1時間半×15回では理解できず、教える方もそれをフォローしきれず、結局重要なところはなに1つ理解できない、という実例を見てきた。私は世界史をやっていたから、各時代の教育史を聞いていてもなんとなく聞いたことある単語、人名が出てきてそれらを結び付けることで理解を進めた記憶がある。結局知識というのは、覚えたときには一体何の役に立つのかわからないが、思わぬところで出てきて驚きとともに理解に資するものになりうるし、何の役に立つかは、役に立ってみないとわからないということである。私が使い得た知識の多くは、受験と詰め込みという動機づけがなければ一生獲得されなかったであろう。

 

とっちらかり始めたのでまとめよう。詰め込み教育に終始する教育は、たしかに、教授は容易でも非常に教育効果が低い。何の役に立つか、分かった気にさせながらすすめる教育は、それ自体困難であり実現へのハードルは高いものがあるが、やはり目指されなければならない方向性であろう。しかし、わかった気にさせることと、真に「わかる」にはおおいな差がある。この間を埋めるには、一定の「詰め込み」が必要であるに違いない。

 

詰め込み「だけ」の教育は、方法論として批判される。しかし、詰め込むという行為、あるいはそれを推奨する場面は、時には極めて重要であるばかりか、これから益々重要になってくる。「無知の知」は、圧倒的な知性があって始めて認識できるのだ。このことを忘れて詰め込みという姿勢を全否定してはならないように思う。

「個性」を活かす教育とはどういうことか

人間には差異がある。容姿も能力も生まれ育つ境遇も生き方も千差万別である。そして我々は様々な尺度(価値観)でそれを測ろうとする。しばしば、そうして測られる差異の内、善いものが「個性」と称される。私が見聞きしてきた限り、教育畑ではだいたい、「個性」と「教育」の間には「尊重」という単語が入り、「個性尊重の教育」と書かれる。

 

大抵、個性尊重の教育と唱えられる時、前提とされるのは、「みんなちがってみんないい」だとか、「人間一人ひとり、みんなどこかいいところがある」という一見優しく、しかしひどく暴力的な理論である。そしてみんなには一人ひとりいいところがあるのだから、そのいいところを伸ばしましょう、というのが個性尊重の教育の論理である。

 

個性尊重の教育は、しばしば、画一的で全体的な教育へのアンチテーゼとして主張される。エリート主義に立つ論壇からは、画一的で全体的な教育によって、若き才能が抑圧されることは社会の損失であるとして、個性尊重の教育が擁護され、平等主義に立つ論壇からは、一人一人の個性を認めそれを尊重する教育は、子どもにとって平等で善いものであるとして擁護される。

 

しかし、勿論、個性尊重の教育には重大な批判が唱えられる。そしてそれは至極最もなものである。私は先程、「暴力的」であると個性尊重の前提を切り捨てたように、人が「自身の良いところ」と自信をもって誇りうる点は個々人にはそう多くは存しないのに、「良いところ探し」を強調され、暗黙裡に尊重されるべき「良い個性」が想定された結果、たいてい「自分はいいところなんぞ1つもない最低なクズだ…」と自己嫌悪に陥るか、よい「個性」へ向けて自己を同一化させようともがき、アイデンティティを分裂させる。そして、尊重されるべき「個性」への競争に人々は投げ込まれ、結局個性尊重の教育という論理によって正当化された競争は、実は取りこぼしている多くを排他しみえなくし、格差を拡大するのである。

 

無論、こうした個性尊重は、左派的な視点から、包摂と自己肯定感の向上のために唱えられることも多い。しかし、善いとはいえない個性は、この場合でも見つめられない。あるいは、価値観を転換し、ある個性を「善いもの」として認めようという運動へと展開することが多い。結果的に、特別ポジティブな要素を持たない差異にまで、無理にいいところ探しを強要され、「個性」の暴力性が強化される場合さえある。いずれにせよ「個性尊重」という善悪で人が切り分けられる限り、「個性」に潜む暴力性は解消されず、「いいところ探し」の際限なき競争から我々が逃れることはできない。

 

少々性急に議論を進めてきた感があるが、要は、「尊重」などという、善悪という価値判断を内在させた単語を「個性」という単語に付与するのは暴力的ではないかという指摘である。個性尊重、一人ひとりが活躍できる社会、としばしば悪意なく唱えられるが、それは大抵の場合、ひどく選抜的な、排他的な論理を含んでいることに目を向けなくてはならない。では、特に教育において個性はどのように扱われるべきであろうか。

 

私は、冒頭で「個性」を個々人に存する「善い」ところとして定義したが、まずここから見直さなければならないだろう。個性とは、個々人がもつ、他者との「差異」に過ぎないと認識するところから始めるべきである。「みんなちがってみんないい」というが、「みんないい」状態はそう多くは存在しない。学校教育機関であれ、社会に出てからであれ、人は常にある尺度、価値観によって選別され、優れた人、「善い」人とそうでない人にわけられる。こうした状態が廃されるのは、とりあえず日本国においては、所謂「基本的人権」と呼ばれる一団の前に人が平等に整列させられる時場合などごくわずかである。(こうした場合でさえ、ミクロな「権利」では平等でもマクロに、構造的に見れば差異が存在する事も多い)

 

個性が善いものでなくなれば、これまで、「個性尊重」の文脈では「個性」に含まれなかったか、あるいは無理に強調されて「尊重」されようとしてきた諸性向、例えば発達障害などの症状もまた、容易に個性に含められるようになる。ここで、表題のように「個性」を活かす教育へと発展する。いくつかの、教育を受けるすべての人が持っているとされるべき能力を与える時に、効果的な方法はそれこそ個性によって千差万別である。みんなちがって「みんないい」まで議論を発展させず、単純に「みんな違うのだ」という、至極当然な、しかししばしば無視されがちな視点を開くために個性という観点は導入されるべきではないか。それは善悪ではなく、単に方法論的な違いの場合に論じられる程度のものである。公共の福祉に反しない限り、別段、個性は抑圧されるものでもないし、あえて強調されるものでもない。教育において、無理に個性を尊重しなくても、社会のほうがその要請に従って勝手に「個性」を選抜するのだから、学校教育の現場くらいそうした価値からフラットであってもよいと思うのだ。

 

結論から言えば、教育によって「個性を活かす」時は、個性を伸ばす場合ではなく、むしろ、教育によって整地されるべき共通部分の能力を育成する場合に限るということになる。例えば、日本の学校教育を修了する人は、義務教育レベルの基本的知識・技能・態度を有しているべきであるから、それを育成する時に、「個性を活かす」という認識に立った個別的方法論は積極的に取り入れられるべきである。それ以上に、社会の要請に鑑みて善い「個性」を伸ばすのであれば、それは私的に行われるべきことであって、公の、全体的な学校教育期間が先導して行なうことではないように思うのだ。

哲学書を読むということ

私は、一応人文系学問を志すものとして、「哲学書」と評される書物にあたることも数多い。先日友人が哲学書の話をしているのを聞きながら、そういえば「哲学書を読む」という行為は幾分特殊な行為であると一人考えた。今回はそんな、哲学書を読む時の話である。

 

1. 我々はなぜ「哲学書」を読むか

一般に「哲学書」と呼ばれる書物は、くどくどとよくわからない言葉をこねこねしているイメージを持たれるかもしれない。確かに概して語彙レベルは高く、難解で、様々な事象を視野に入れながら論理が作られているため、その記述は複雑で内容が豊富に過ぎ、すべてを「理解」するなど不可能である。しかも、(私を含め)だいたいの人は翻訳版で哲学書を読む程度の能力しか持たない。そうすると言語に込められた意図の多くは欠落し、更に理解への道は遠ざかるばかりである。哲学書とは、概して「わからない」ものなのである。

 

しかし、わからないからこそ、哲学書は「かっこいい」ようにみえるものである。なんとなく「哲学者」と呼ばれる人は、男の子的にはかっこよくて、厨二心をくすぐられる。ニーチェの「神は死んだ!」なんて最高に厨二心を刺激する。ウィトゲンシュタインの「語り得ぬものに関しては沈黙せねばならない」なんて、かっこよくてなんとなく使ってみたくなる。ニーチェに関しては不勉強どころの騒ぎではないから置くとして、ウィトゲンシュタインの『論考』を読めた!という人はおそらく別世界に旅立ってしまった人であろうから、ぜひあれをご教示いただきたいものである。私にあれは無理だ。

 

少し話がそれたような気がするが、実は本筋である。というのも、私が哲学書を読むようになった第一の理由は、「かっこよく見えるから」に他ならないからである。必要にかられて読まざるを得なくなってしまった最近はそうでもないが、私が哲学書にとっついた最初の理由は、こんな下賤なものである。そこに真理が書いてあるからとかなんとかそういう崇高な理由ではない。厨二心をくすぐられるようなことが、「哲学者」という肩書を持っていると大手を振って書けるのである。カントの描いた人格なんて、理想的に過ぎて、飲み屋でぶち上げるならいざ知らず、「カント」に権威を感じない人がシラフで大真面目にそれを話す人をみたら大笑いしかねないとさえ思う。(もちろんカントの描いた倫理観、あるいは論理はそれ自体の実現可能性を置いて、学ぶべき点が非常に多い、あまり好きではないけど)けれど、『純粋理性批判』なんて読んでいたらなんとなく知的な感じがして、かっこよく見える、ような気がする。そんなことを考えている年頃であの本が読めるわけがないのだけど、第一はこんなところだろう。

 

少々、下賤な話を記したが、しかし何はともあれ哲学書と格闘してみると、やはり読み継がれている理由に気づく瞬間もある。まず、彼らは大抵文章がうまい。というか言葉のとり方が一々かっこいい。これは翻訳者の能力如何によって大きく変わるし、大抵の翻訳者というのは、読み違えていることも多い、というのは最近になってようやくわかり始めたところだが、ともかく、ちょっと自分には思いつかない言葉のとり方で、書かれてから数百、数千年と経っているはずの今でさえ現実味をもつ文章を作りだす。全てわかる気は毛頭しないけれど、はっとさせられるフレーズがたくさん出てくる。この体験はかなり愉快である。プラトンの『国家』において、哲人王と教育について論じた項など、書かれた時代を考えると果てしない。マキャヴェリが正装をして古典にむかった、という逸話もなるほどわかるところである。

 

私が哲学書の中で気に入っているフレーズは多数あるが、最近目にしたもので気に入っているのは、ウォルストンクラフトという18世紀フランスにおいて女性の権利を主張した思想家の「無一物の存在は寛大たり得ず、あるいは不自由な存在は有徳たり得ない」というものである。

 

無一物の存在が寛大たり得ないというのは、常識といえば常識である。食うや食わずやの人々は、(よほどの聖人でも無い限り)他者に寛大に施しをすることはない。精神的に含蓄の無い人は、自らの知らない世界の物事に対して寛大に接することは出来ない。これはわかる。しかし、個人的に衝撃だったのは、こうした論理に並び立てられた「不自由な存在は有徳たり得ない」という一文である。不自由な存在、ウォルストンクラフトの場合、中産階級以上の女性を指しているが、は、不自由である限り有徳になりえないというこのフレーズは、それ自体、女性には徳がないとして男性優位を主張する伝統的な考え方に対する強烈な反発を示しているが、それ以上に、「自由」の必要性について深く考えさせられる一文である。無一物であることと不自由であることが並列されること、そして対偶をとれば有徳たる存在は自由である、というテーゼは、「責任」を強調し、相手を未熟、不徳、能力不足として、自由を有する人が自由を与えようとしない社会全般に頻発する言論について非常に示唆的である。

 

少し長くなったが、哲学書を読む理由の第二は、「ハッとするフレーズ探し」である。例えば、インターネットの海で自由に多くの人が発言する現代では、日々名言が生まれるが、それが終生人々の心に残ることは少ないし、建前を考えると公的な場でそれを引用するのははばかられる。読み継がれる哲学書を書くような哲学者は、日々のあらゆる問題について気が狂うほど考え、学び続け、一つ一つのフレーズを絞り出しているように見える。そして、彼らの思想は、現代を形作る制度を作った人々の多くに影響し、そして相当の権威を有している。彼らは巨大すぎて、彼らの前には、我々は大抵謙虚になれる。君、気張らずに話せる仲間は大事だよと、同格の相手に言われても、場合によってはなんとなく突っかかりたくなるかもしれないが、ヤスパースに「実存的交わりの必要性」を説かれればそんなもんかと思うかもしれない。「ハッとするフレーズ探し」はやはり、哲学書を読む愉快の中でも相応に大きいものである。

 

ところで、先程、「必要に迫られて」とさらっと書いたが、これこそが哲学書を読む第三の理由である。「学問をするため」というのがその理由である。これまた先程ちらっと書いたが、偉大な哲学者は、時の所謂エスタブリッシュメントによって読み継がれている。そして、その思考の基盤となり、あるいは共通の論理として息づいている。もし学問をしようと思えば、どうしても古典にあたって学問者の共通言語を習得しなければわかるものもわからない。さらっと書いてあるフレーズに込められた意味を理解するにはやはり、哲学書を読まねばならない。「自然」というなんでもないフレーズを見た時に、特に西洋近代哲学に連綿と刻まれた自然と人間の関係性を想起できなければ、分からない事も多い。学問をするなら、哲学書は普通避けては通れない、はずなのだ。

 

 

しかし、学問をするために哲学書を読むのは何も、共通言語を修得するためだけではない。哲学書それ自体が、偉大な先人の足跡そのものに他ならないからである。読み継がれる哲学書には、やはり、相応に真理を求めた人々の到達点が、三者三様の様式で記されている。その観点は特異にして重要であり、ある一端を切り分けるメスとして極めて切れ味がいい。全霊を持って磨き上げられた論理を、なんとか理解してやろう、やっつけてやろうと挑むことは学問者の批判的思考力、論理的思考力を試し、育み、その意識を真理の光の方へとむけかえる力を持つ。だから哲学書を、我々は読みついできたのだ。

 

なんとなく、哲学書=古典と読み替えて論理を展開してきたことに、ここに至ってようやく自覚してしまったが、上記の論理は、最近書かれた哲学書に対しても同様に言える。古典は時代の評価を経ているが故に価値があるとする思想にも理がないわけではないが、やはり現代の哲学書はそれはそれで、真剣に真理を求めた人々の到達点である。であるならば十分読まれるべき価値は在るであろう。

 

2.「哲学書」はどう読まれるべきか

ここまでの論理を辿ってみると、哲学書には無謬の価値があり、「読まれるべき」存在であるようにさえ思われる。しかし、冒頭で記した、哲学書は基本的にわからない、という事実は、ここで再度確認されてしかるべきであろう。

 

なぜ確認されるべきかと言えば、偉そうに「デカルトが~」とか、「マルクスが~」なんて言っている人の多くは、それが大学教授であろうが、いけ好かない学生であろうが、市井のよくわからない親父であろうが、概して読めていない、と言う事実が一方であるからである。みな、自分の持つ能力の限界を持って哲学書に臨むが、哲学書を理解するためには、時代ごとのコンテクストを理解し、テクストの単語、一つ一つのもつ意味の方向性を知悉し、そして、それが記された意図を知らねばならないが、ここまでするのは並大抵の能力ではなく、どだい無理である。例えば今、我々が「ポピュリズム」と記せば、他に何も書いていなくても、トランプの大統領選当選を念頭に置いていることは否が応にもわかるが、もし100年後の人が現在の「ポピュリズム」言説を読めば、こうしたことすら研究して確認しなければならない。これら全てを知り、同時代の人と同じように哲学書を読み、記してある内容を完全に理解することは不可能である。

 

ましてや、一般人か、それに毛が生えた程度の我々が哲学書に当たったところで、むしろ得るものは少ない。時代のコンテクストに支配され、哲学の伝統に基礎を持つ難解な語彙と論理で複雑に組み上げられたそれは、なんとなく読んでいて眠くなるし、時間もかかるし、ほとんど理解できないまま無為に時間を過ごすに違いない。あえて難しく書こうとしている場合さえ、ままある。であるから、たとえ思い違い、思い込みを多く含んでいたとしてもその本に関する概説書の一冊にでも当たったほうがよほど様々わかるというものである。

 

 

しかし、逆に概説書一冊で知ったかするというのも考えものである。あるいはその哲学書に貼られたレッテルを信じてそう読み解く、あるいは一部分を切り出してフレーズ単位で読んでいくというのも正しい読み方ではない。例えばベンサム功利主義者として名高く、功利主義そのものについては、マイノリティの迫害という点で重大な批判がなされるが、何もベンサムがそれに無自覚であったわけではない。であるのに、「ベンサムはマイノリティ迫害を正当化する論理を無自覚に主張した!」などというと途端に怪しくなる。あるいは、ルソーが性善説と児童中心主義に立って『エミール』において消極的教育論を論じた!として、フレーズを切り出して拾い読みし、分かった気になって「ルソーはかく語りき!」なんて声高に叫ぶと随分おかしなことになる。 『エミール』は確かに、子どもの持つ発達段階を否定し、ムチを持って子どもの世界と関係のない知識(例えばラテン語)を叩き込むような旧来の学校教育を批判しているが、いかように教育すべきかと言う部分については、随分無理がある論理を展開している箇所も多い。批判書としては極めて重要な視座を提供するが、「だからどうした?」の部分は弱いにも関わらず、「だからどうした?」の部分を脳内補完して聖典のようにそれを読もうとする様は愚かで滑稽である。

 

少し教育学の伝統批判に足を踏み入れ言葉が荒くなってしまったが、結論としては、哲学書は取っ掛かりとしてはフレーズ探しやかっこよさで読まれてもよいし、そう読むことは全く個人の自由であるが、それをツールとして取り組む、あるいは誠実に向き合うのであれば、もう少し別様の読み方があるということになる。

 

哲学書は宝の山である。キラキラとした言葉が我々を助け、道標となり、あるいは反省的思考を作りだす。だからこそ、「哲学書を読む」と言う行為は、例えばライトノベルを読んだり、インターネット上の言説に対するのとは随分違った行為になる。これが「小説」になるとまたいろいろな主義主張が生まれてフォローしきれなくなるのでここらへんで論を閉じよう。哲学書はいいぞ!と言う話であった。

 

(P.S.ルソーのことを、「ジャン・ジャック」ってよぶのかっこよくないですか)

ある塾講師への弔辞

先日、私の塾時代の恩師の訃報に触れた。私が卒塾した直後、末期癌が発覚したのもしっていた。けれど、余命があと半年と言っていた割に随分精力的に様々なテキストをネット上にアップロードし続けていたし、迎えが来るにはまだかかるんだろうと勝手に高をくくっていた。けれどどこかで、もう彼に会えないことも予感していた。

 

いざ訃報に触れると一体どうしていいのかわからなくなるものである。彼には結局、私が彼の期待に添えなかったことを伝えに言って以来、ついに会えなくなってしまったのである。まだなんだろうと、勝手に高をくくって彼に会いに行かなかった自分を責め、同時に後悔の念に包まれた。彼の期待に添えなかった私が、彼の言っていたことを少しでも理解しようと大学で勉強し続けるうちに、私の中で彼の存在感はどんどんと大きくなっていっているのに、彼は逝ってしまった。

 

私自身、随分こんなタイトルの文章を誰の目にも触れうるこんな所に書き残すべきなのか迷った。しかし、どうしても、インターネットの片隅に残しておきたかった。これは、不出来な、おそらく先生の記憶の端っこにも残っていない、一生徒の、自分勝手な決意文である。もう、こんな身勝手な生徒を優しく怒鳴りつけてくれる先生はいないのだから。

 

 

拝啓  kymst先生

 

私が、先生と初めてお会いしたのは、高校2年の冬でしたか、私が勉強が出来るとかできないとかそんなお話にすらならない程未熟なときでした。今思えば、当時扱っていった問題は随分基本的で簡単なものだったのに全く歯が立たず、随分背伸びした所に来たなと思っていました。教室で躍動する先生は、今まで接してきたあらゆる先生の中で最もやかましく、自信家で、そして圧倒的でした。

 

受験期、先生とは基本的には週1度お会いしていました。いつも新宿の校舎の決まった教室、決まった席で、1年間、先生を眺めていました。あるいは、私は随分未熟で不出来だったのに、先生見たさに先生の開講する集中講義は全て受講していました。講義内容はどれも高度で、明解で、充実していました。おかげさまでほんの少しだけ、物事がよく見えるようになりました。

 

先生は、数学を生業として、数学を教えていらっしゃいましたが、残念ながら私は数学の問題が解けるようにはなりませんでした。もちろん、先生に習い始めたときから比べれば、信じられないほど難解な問題も解けるようになったけれど、それもまた十分なレベルではありませんでした。ひとえに、私が不出来で不真面目なせいであります。しかし、先生が同時に教えようとしていた-と勝手に私が早合点している-こと、生き方、ものの考え方については数学より少しだけよく、自分なりに消化できました。そしてこのことが、今も、事あるごとに私の頭の中を駆け巡り、私を叱咤し続けているのです。

 

先生の境遇は随分、「普通」ではありませんでした。先生が学んできた思想も、先生が取り組んできたことも、当時はおぼろげであったけれど、今ならば少なからずよくわかります。そして学べば学ぶほど、先生に圧倒され、そして先生が正しく「先生」であったと、納得することになるのです。

 

先生は紆余曲折を経て、結局、我々のような、あの高い塾費を払いうる家庭に生まれ、東京とその周辺に暮らし、多くの場合私立の中高一貫校に通う、「ブルジョワジー」の子弟を訓導される立場に落ち着かれました。そして、その傲慢な子弟たちの鼻っ面をへし折り、エリート主義を、多くの子弟たちの心には届かないエリート主義を叩き込もうとされていました。

 

エリートとは、一体どうあるべきなのでしょうか。私は先生に習い、大学に入った後もずっと考え続け、そしてそれについて考えるたびに先生の姿が脳裏をよぎりました。私は先生が、先生こそが敬愛すべきエリートであったと信じているし、そして、そのエリートとしての生き様が私の、生き方のロールモデルとして強く印象に残っています。

 

先生はよく、仮初の、「勉強ができるやつ」を口汚く罵られました。彼らは物事の本質のわずか初歩のところも分かっていないと、そう叱責されました。あるいは、わずかに勉強ができても人間としての礼がなっていない人のことを、「一宿一飯の恩義も知らぬやつ」と吐き捨てられました。その姿は痛快でもあり、しかし、その指摘は私にとって深く響くものでした。

 

最後の講義、それは高校3年の冬季講習の最終回であったと思いますが、そこで先生はテキストを早めに終わらせ、我々に語りかけられました。曰く「正義に肩を怒らせ意固地になる間違った強さではなく、他者のことを思いやれる、そんな真の強さ、優しさを身に着けた大人になりなさい」と。この言葉は、字面は確かによくある人生論、倫理観であるかもしれませんが、先生の生き様と合わせた時、今なお私を深く戒め、導いてくれるそんな言葉となっています。

 

私は、「エリート」になりたいと、今強く思っています。私は不出来で不真面目ですから、テストで点数をとるなんて簡単なことも満足にできないし、外国語が特に不出来だから、いわゆるエリートの要件からはかけ離れてしまっています。それでも、先生に憧れ、巨人の肩に登り、世界を眺めたい、そして先生の言うような強い大人になりたいと、そう思っています。私は傲慢で、自分のこともろくに省みられないからこんなところで自意識を吐き出し、あるいは弱い人間だから、こうして先生を当身にしながら公衆の面前で宣言しないと自分がやらないのではないか、とそう不安になってしまいます。

 

そろそろ自分語りは止めましょう。先生、私は先生とお会いするという幸運に恵まれ、本当に幸せ者であったと、心から思っています。そしてその思いは今になって益々強くなっています。先生はかっこよかった、男として、人として、私は先生を心から尊敬しています。先生は、その人生を戦い抜かれた。私の知る限り、息もつかず、戦われた。せめて、これからは安らかにお眠りください。そして、不出来で傲慢な教え子を見守っていてください。先生、本当に本当に、ありがとうございました。

 

教室中央、前から3列目の左側に座っていた男子生徒より

AO入試を考える

Twitterで随分前だが一つのツイートが流れてきた。

このツイートは多数RTされ、喧々諤々の議論を巻き起こしている。このツイートを眺めながらそういえば自分がAO入試と随分近い所にいたことを思い出した。今回はこの「AO入試」という代物を考えてみたい。ちなみに私はAO入試の拡大には消極という立場をとることを先に記しておく。

 

AO入試とは何か。なぜAO入試は行われるか。

AO入試」という入試形態を果たして一語でくくっていいものだろうか。オリジナリティあるAO入試を実施している学校も多い一方で、それ推薦入試と何が違うんだ??となるようなAO入試を実施している大学も多い。一応各大学のアドミッションポリシー、すなわち大学の目指す所、に沿った人物を選抜することを目指した入試である。大抵、自己推薦書やらなにやら幾つかの書類を提出させられ、その後面接を行なうことで選抜を行なう。高校時代の評定が問題になる場合もある。

 

AO入試の謳い文句は色々あるが、私が最も説得力があると考えたのは、「ある集団の中に異才をある割合で放り込むと集団全体が活性化する。ゆえにAOは必要である。」というような言説である。確か東大推薦入試に関して聞いた言説であったと思うが、確かに一歩間違えば気が触れたのではと錯覚するようなオタク、もとい異才が多数いた自分の高校時代のコミュニティを思い出すとこの言説は相当に説得力があるように思う。AO入試は確かに尖った異才、それは通常の筆記試験では取りこぼしてしまっていたに違いない異才を拾い上げる作用はあるだろう。

 

「異才」やら「異能」、「天才」が求められる社会的土壌というのは確かに存在するし、AO入試はこの点にも必要性の基盤を有している。私などは疑ってかかっているが、これからはイノベーションの時代であり、イノベーションの能力こそAI時代において人間が果たしうる役割である。「イノベーション」のロールモデルスティーブ・ジョブズiPhoneマーク・ザッカーバーグFacebookなどに求められ、彼等のような自由な発想が許容される社会が、そして彼等が自由に能力を発露できるような環境整備が求められる。というかイノベーションの時代はやがてそうした社会をつくりだし、学歴主義を打破し、資本は彼等に集中する。だからそうしたイノベーションの環境として大学が活用されるべきで、逆説的に云えば、イノベーションの時代に生き残るための新しい選抜手法が必要である、そしてそのためのAO入試である、というように。

 

もう1つ、AO入試の効能を代弁すれば、少子高齢化の進行と大学進学率の高止まりにより大学間競争が更に激化する現代、各大学は大学ごとの差別化を求められ、ひいては選抜手法そのものの差別化が求められている。十人横並びの筆記入試ばかりではなく、自分の大学の色を定義し、特色ある入試、すなわちAO入試を行なうことで多様な学生を集めようという意図があると考えられる。

 

以上3点がない頭を絞って考えたAO入試の効能である。確かに説得力がある。しかし、いくつか疑義を提起することは可能であろう。それを上げることでAO入試そのものを考えていきたい。

 

AO入試は教育格差を拡大するのではないか

まず一点目、まさに冒頭のツイートに関連して、教育格差の拡大を助長するというような言説についてである。これに関して自分は、肯定的でもあるが否定的でもある。

 

このツイートに対して多く寄せられた批判が、「筆記型入試もまた教育格差を再生産するから、勉強”さえすれば”学歴が手に入るなどという言説はまやかしである」というものである。これは、再生産論という教育社会学的言説に立ってみればとりあえず、事実を述べたものであるには違いない。

 

(教育の再生産論をもとに、学歴による賃金格差はなぜ起こるか、給付型奨学金は正当な政策かについて検討した記事)

 

しかし、この批判が当を得た批判か、というと非常に疑わしい。まずこれはAO入試と筆記型入試のどちらかが、教育の格差再生産効果に対してより強く作用するかという比較議論を無視している。ツイートで述べられている「可能性」という語を意図的に見落としていると言ってもいい。ここについて、教育社会学的に議論するのであればデータに基づいてあれこれ言うべきであろうが、生憎手持ちデータが無いので所見を述べれば私はAO入試のほうがより直接的かつ強力な格差再生産機能を有しているように思う。理由はいくつかある。まずそれが面接や文章評価を含む、「知識獲得競争」という単純な受験ゲームの域を超えた、多様でより文化資本によって左右されるような選抜機能を有していると考えられる点、あるいはもっと言ってボランティア経験や留学経験などそもそも文化資本の多寡そのものによって選抜しているように見える点などがそれである。それよりは、単純な受験ゲームで勝ち負けを決する方がまだ、ミクロな格差逆転の可能性を残しているのではないだろうか。

 

もう1つ、この批判について的外れであると考える点は、それがマクロな視点のみからなされているという点である。少なくともツイートに出てくる研究者さんは専門用語である「文化資本」という語を使っているあたり再生産論をご存知に違いない。その時点で筆記試験も…という批判は有効でなくなるのだが、さらにいえば、ミクロな、「逆転できるかもしれない」という願望に似た作用にアプローチしたツイートであるという点を見落としている。私は、筆記試験を中心とする受験ゲームは、まさに目の前の用語集一冊を頭に詰め込めばそれまで何をしていても問われない、というシンプルさゆえに、多くの人に自分でもできるかもしれない、という一種のやる気を煥発し得ているように思うのだ。高校時代、何度遅刻していようが、模試でどんな酷い偏差値を叩き出していようが、ゲームばかりしてろくに自己研鑽に務めていなかろうが関係ない。家にお金がなかったとしても、何とかなりうる可能性はある。全ての条件は切り捨てられ、目の前に提示された問題に答えられたかどうかだけが合否を分ける。この単純さは、AO入試にはない。AO入試を受けようと思った時に、多くの人達は既に「ノーチャン」である。そこに逆転の可能性はない。確かに筆記試験も、結果をマクロ的に整理すれば多くの人たちはほぼ成功の見込みがないことがわかるが、それでも「可能性」はある。この可能性という点にアプローチしたツイートを頭ごなしにマクロ的に否定することは有効には思われないし、少なくとも「そんなことは百も承知」した上での言説なのではないだろうか。(マルクス的批判が取りこぼしている点とも言い換えられる。マクロな話だけで社会が進むのであれば世の中はもう少し効率的に進んでいるはずである。)

 

さてツイートへの批判に対する批判だけで随分長く字数をかけてしまったが、要は、AO入試の格差再生産性を他と比較しながらどのように捉えるにせよ、非常に強力な再生産作用を有した入試形態であることは間違いないだろうと思う。そして多くの場合、再生産構造は当事者には意識されない。「合格」という個人的成功はまさに自らの個人的な努力あるいは能力に還元され、個人を包含する「歴史化された自然」(≒環境)による作用は意識されない。さらに、再生産構造が続く限り他の階層と交わることは無いから、益々自らの境遇を客観視出来る機会は少なくなる。こうした点に光を充てるのがまさに学問という営みであるがここでは置こう。

 

AO入試は異才を選抜しうるか

さて、再生産論的批判は、言ってしまえばありきたりでAO入試に固有な問題ではないし、本質的ではない。おそらくこの疑義こそがAO入試に対して最も強力な批判である。

 

東大推薦入試は置こう。あの合格要件を見ていると、確かにあれに受かるやつは異才だ。私の後輩にもあれで通ったのがいるが、飛び抜けてできたし、もし一般で受けても受かっていただろう。東工大AOなども置いてもいいかもしれない。同期で1人東工大AOで選抜を突破した友人がいるが彼なども異様に数学ができた。受験期などはしばしば数学のかなり難解な問題を持っていって、その場で解説してもらっていたくらいである。間違いなく一般入試でも受かったであろう。

 

問題にしたいのは慶應か、あるいは慶應より更に下のレベルの諸大学のAO入試制度である。まず根本的に言ってしまえば、社会に異才はそんなに多くない。他者と異なる才能は、せいぜい「帰国子女の英語力」とか程度になるのではないか。それなら現状の英語さえできれば大抵の大学は受かる現状で十分である。それ以外で評価されていること、すなわち「高校時代に取り組んだ進歩的な内容」で異才を測るのはいささか疑問が残る。

 

昨今、随分燃えたがAO入試対策を専門で行なう某塾(エゴサがきつそうなので一応伏せる)がある。あれの塾長には個人的に何度も会ったことがあるし、そもそも出来てわずかなときから知っているし、出ていること出ていないこと、事実かどうかわからないものまで含めて随分いろいろな悪評を聞いている。あそこの手法というのは当初から制度そのものを破壊するそれであった。

 

塾は、塾生を受からせるために、塾生に社会貢献や政治参加などを目指した種々の取り組みをさせる団体を作らせ、そこに高校生の他の団体に対するには多額の資本を投入し、ノウハウやコネを注入する。塾生(高校生)たちはそこに取り組む中で評価されうる「実績」を積み、他の高校生とはちょっと違う体験を持った高校生に作り変えられる。

 

次に、多数の合格者をもとに作られた「自己推薦」等のノウハウをもとに、高校生の思いをどれだけ反映しているか疑わしい資料作成を行わせる。さながら就活セミナーであるが、ある意味それを前倒しで行っているだけともいえる。一時期は、講師が高校生が作るものであるはずの自己推薦書その他を代筆しているという噂さえあった。こうなってくるともはや評価されるものすべてが、慶應であれば慶應に受かるためのまやかしの価値であり、塾によって作り上げられたものである。

 

無論、某塾はその合格メソッドを洗練させることで、ある程度まっとうな教育産業に乗り出し(塾生の大半を塾の金で活動に送り出すようなことはもうしていない)、「代筆」など行っていてはとても追いつかないであろう多数の塾生を抱え非常に大量の合格者を慶應その他に送り出している。そのメソッドを求めて入塾した異才を鍛え上げ東大推薦入試の合格者も何名も出したというのだから大したものである。慶應に至っては他の塾もなし得ていない、驚異的な占有率を達成している。(あの合格者数の数え方も相当黒い話を聞くがこれはどこの塾にも共通するものであるから置いておこう)

 

この占有率そのものがAO入試制度そのものの破壊であるという指摘はあたるだろうが、とりあえず某塾批判をしたいのではない。端的に言えば、AO入試にはAO入試の対策があり、それがある限りAO入試は異才を選抜しえないという事実である。

 

私の友人で、慶應の法学部政治学科やSFCにAOで受かり今日も通学している知人が相当数いるし、彼らの中でAO対策塾に通っていた者も相当数いる。確かにその中には、あ~この人には勝てないな、と思えるような異才もいるが、どうにも「普通の人」が多いような気がしてならない。どころか、学問的才能(あるいは基盤)に随分と欠け、必死な努力を余儀なくされている人も多い。特に、SFCの先進的チャレンジが評価されるにはもうしばらく年月が必要であろうが、私はあの取り組みにはいささか懐疑的である。というか、相応に成功はする(現に”SFCらしさ”は形成されている)だろうがそれが一体、それを行わなかった場合とどれだけ違うのか、という点で懐疑的である。

 

慶應でさえこれだから、他の大学に至っては、その効果に一層懐疑的にならざるを得ない。推薦入試に対してなされる、根拠があるか疑わしいやっかみ、すなわち能力(学力)の低いものが「楽」をして合格をつかみとっている、というものはAO入試に対しても同様に言える。(やっかみである所以は、「楽」であるならば「楽」を取らなかった個人にも責任があるからである)どころか、まだ高校時代の一応の真面目さを測ると言う意味ではある程度有用であるといえる推薦入試と比べ、よりいっそうこのやっかみは現実性を帯びるのではないだろうか。

 

もちろん、評価軸そのものが違うという批判は当てはまる。旧来的な、筆記試験による画一的な評価、画一的な選抜をやめるという意図はよく分かるし、であるから旧来的な評価軸では「無能」な学生が選抜されるというのもやむを得ないことであろう。故に、私はAO入試のこうした作用をもって「無用」とする気はないがある一定の割合以上拡大されるべき手法でないように思う。AOというのは一般入試に比べて馬鹿にならない程評価コストがかかる制度であるし、であるのに「筆記型試験」より効果が期待されないか、期待されても僅かであるならば大手を振って拡大すべき手法ではないように思うのだ。

 

もう何点か疑義はあるが、とりあえずこの2つは重要であるだろう。

・まとめ

大学は今、戦後迎えたものと同じくらい、大規模な転換を迫られている。大学間競争の激化とともに大学は「選ばれる大学」を目指さなくてはならなくなった。今まで殿様商売を出来ていた大学が、いわば企業努力をしなくてはならなくなり、特に日本の大学の大半を支えてきた私学にとってそれは死活問題である。選ばれるためには他者、すなわち同じような偏差値の大学との差別化が必要である。ある大学は就職率を誇り、ある大学は手に職がつけられることを誇る。こうした見栄の張り合いの中で、残念ながら学問は二の次になり、あるいは本来的な大学の価値に関する競争はなりを潜めていく。かつて高校の学校間競争の際に起き、そして学歴主義という文脈の中で受験戦争が巻き起こって本来的な教育効果が著しく傷つけられた文脈と一緒といえば一緒である。

 

こうした流れをある程度本質的な競争、すなわちアドミッションポリシーに沿った健全な競争に戻そうとして進められるAO入試という取り組みには一定の有効性があることは確かに認められる。現に諸外国では、AO的な取り組みが一般化され、日本のような画一的な受験ゲームは廃されようとしている。

 

しかし、何事もバランスが肝要である、という愚にもつかない、時には非常に無責任な言説はこの場合にも重要である。一体、AO入試には過度に拡大されるだけの価値はあるのだろうか。あるいは今までのような単純な受験ゲームにはそれほど価値がないのだろうか。私は両者にそこまでの本質的な違いは感じない。AOを入れようが入れまいがトップ校は差別化されるし、中間以下は差別化されない、あるいは、今まで測られてきた能力以上の何か社会的にコンセンサスを得られるやり方(あるいは評価軸)で受験者が測られるとは余り思えない。あくまで取り組み方が変わる、それだけの話ではないだろうか。

 

冒頭で私が賛同したように、AO入試を用いた学内の多様化、コミュニティへの刺激という作用を私は強く支持する。コミュニティは多様であるべきであり、効果が限定的であってもAOはこの点にいくばくか好意的に働くに違いない。しかし、極論は常に耳半分で聞かなくてはならないように思う。単純さは必ずしも悪ではない、と私は考えるのだ。

教育ポエムを考える

世の中には、「教育ポエム」がありふれている。こう断定的に始めるのも時には悪くあるまい。教育議論はしばしば「教育ポエム」によって錯綜し、一層見えにくく無意味で、あるいは「どっかで聞いたよそんな意見」といったような状況を現出しがちである。

 

さて、教育ポエムを糾弾するのだから、代表的な教育ポエムを定義し例示しなくてはなるまい。教育ポエムとはいうなれば、教育や子どもに関して憧憬的なポエムを綴る行為全般を指し、「教育」を語る時に私も含めてしばしば行ってしまう行為でもある。だいたい子どもを語る時に、「キラキラとした」とか「生き生きした」とかそういう単語が使われ、あるいは教育を語る時に、「有機的な」とか「個性を育む」とか「相互に学び合う」とか「活動的な」とかそういう単語が使われる。「「御社ァ!潤滑油!!」並に聞き飽きた表現である。上の単語が使われるときは、現行の「無味乾燥」な教室風景と対称的な「理想の教育」を語るときであるが、もう少し保守的に「道徳的な」とか「礼儀が正しい」なんて文脈でも教育ポエムは顔を出す。総じて、反論を許さないような、あるいは結局のところの子どもの個別性には全く配慮しないような理想的価値について語る時にポエティックな語りが行われる。

 

あるいは語りとは言わなくても、大抵、子ども時代を考え、子どもの教育を考える時、我々はしばしば社会や現状とそれを切り離して、憧憬的にモノを考えがちである。我々にとって「子ども」は「無限の可能性」を持つがゆえに「貴重」な存在であり、彼らの歩んでいく道の無謬の可能性は理想的・憧憬的に捉えられるものであるのだろう。彼らが生きていく社会は、現在と地続きのわずか10年かそこら先の社会であるという事実は念頭にはないようである。

 

糾弾すると書いておきながら私自身、別に教育ポエムそのものを「悪」とする気はない。善い教育について語り、あるいは考える行為それ自体は否定される類のものではない。理想的には否定しにくい諸価値とは、それ自体が社会的に目指すべき価値として合意を得やすい価値であり、それを希求し合意形成を行い目指していくという方向性それ自体は否定される類のものではない。

 

しかしながら、教育ポエムはしばしば行き過ぎる。しばしば、行為主体の教師あるいは子どもの実態を無視する。あるいは、彼らが形成される環境を無視し、社会そのものを無視する。こうして議論は二分的に分裂する。ポエティックな思考が、実際の実践を圧迫しそのギャップにより多くが苦しむことになり、やがて二分的にロマンティックな教育を子どもに押しつけるか、あるいは徹底して現実的で近視眼的価値を子どもに押し付けていくことになる。ついには、現実とポエムが互いに交差しなくなり、教育は実社会にも寄り添わなければ体系的な哲学にも根ざさない中途半端な存在になって漂うハメになるのだ。

 

ここで教育という行為を「子ども」に対するものに限定して考え、なぜ教育はポエティックに語られるのかをもう少し詳しく考えてみよう。

 

この時点で捉え方に大きく相違が出るのだが、仮の定義として置いておけば、社会とは「大人」によって構成される。教育とは、子どもという新参者を社会に組み込むための準備であり、あるいは社会を、大きく言えば文化を受け継ぐための営為である。我々は教育という行為を通じて、先人の積み重ねを受け継ぎ、あるときには問題を解決しながら、あるときには先人と同じことを繰り返しながら、厳しい生存競争の中で支配的な立ち位置を築き上げてきた。こうして捉えれば、本質的には教育は迎え入れられる社会に従属的にならざるをえない。社会に必要な人材、社会に迎え入れられるために必要な価値、知識を習得した個人を作ることこそ教育に必要なこととなる。

 

しかし、しばしば子どもを迎え入れる側の「社会」が理想的に捉えられる。子どもが向かっていく先には明るく幸せな未来が広がっていなくてはならないという一種の強迫観念に我々はとらわれる。無限の可能性を持った子どもはみな幸せにならなければならないという理想主義が、現実の社会から随分離れた所に「子どもが迎え入れられる社会」を創り出し、その理想の社会とやらに向かって子どもを教育しようとする。彼らがいざそういう教育を受けて飛び込んでいく先にある社会は、描かれていた社会とは随分と勝手が違っていて、勝手が違うことにどれだけ早く気づけるかが現状、社会的成功に直結している。

 

学校で教えられる社会と、現実の社会のギャップなどいくらでもある。社会における関係性は学校におけるように無条件的ではないし、プラトニックではない。社会は汚い側面を「大人の恋愛」「社会人としての心得」などとごまかしそれがわからない「子ども」を時には嘲笑する。大人は常にダブルスタンダードであり、子どもに理想を解く小学校の先生が、大人と対するとき、すなわち社会的生活を営むときには随分とドロドロした関係性に身を置いていることなどしばしばである。教育がポエティックに語られる本因はおそらくここにある。今の自分が随分と酷い状況であるから、あるいは昔想像していた純粋な自分とは随分違うから、そうならないように自分ができなかったことを憧憬的に子どもに丸投げしようとするのである。自分もまた数多のそういう期待の中で育ってきたことを忘れているのだ。

 

それではと、子どもに実際の社会を教えようという動きが出てくる。それは大抵フォーマルな形ではなく、教室での雑談のような形や、日頃インターネットなどで触れる情報によってインフォーマルな形で伝達される。インフォーマルである、ということは無秩序であるということであり、しばしば子どもは一面的な社会ばかりに目を向け、絶望したり無邪気に希望をいだいたりする。「大学生活は楽しそう!!!!」と思う子がいる一方で、「大学生なんか怖い…」と思う子がいることが例としてあげられるかもしれない。生活とは多面的であり、ある面では確かに楽しいが、ある面では汚らしく、ある面では辛いこともある。しかし、秩序だって教えられる「社会」とやらは多様な人達が暮らす社会と乖離せざるを得ないから、結局インフォーマルな伝達によって積み上げ式に伝えられるしかない。

 

 

さて、微妙に議論が霧散している。この文章でここまで言ってきた前提をもとに言いたいことを二つまとめよう。

 

まず、教育を考えることの本質的限界を自覚すべきであるという主張である。教育議論をする時にしばしば、自分が教育の話をしているのか社会の話をしているのか見失うことがある。あるいは自分を棚に上げて未来に無責任に期待した言説を披露することがある。「子どもが活発な社会は健全な社会である」という類の経験論があるが、まず間違いなく、子どもが活発な社会では大人もまた活発で前を向いている。というか大人が前を向く余裕がなければ、そもそも子作り、子育てなどという行為に至り得ない。社会は教育が、あるいは教育されてゆく将来の子どもが創り変えていくものではなくて、今社会を作る我々が創り変えていくものなのである。だからもし教育について本質的な議論をするのであれば、我々を取り巻く社会現象そのものについても合わせて真剣に議論しなくてはいけない。

 

次に、教育ポエムの批判可能性の再検討である。教育ポエムそれ自体には重要な価値が含まれている事も多い。教育が作るべき個人は、ただ現状の社会を受容し伝達していくマシーンではなく、そこで自分なりに生活し社会を考えていける個人である、ということは一応上述の議論を見ていると明らかになっているように思う。ここを目指して現状の教育を変えていく取り組みはやはり重要である。しかし、もう1つ重要なのはポエムをポエムとして処理しない、批判的思考と言論の枠組みづくりである。それはしばしば「哲学」と称される。ポエムはポエムであるがゆえに、現実的側面からどうしようもない形で否定されるか、議論を許さない素地によって語られる。これをきちんとした体系で整理し、あるいは行き過ぎにブレーキを掛けていく取り組みは重要であろう。ほっておくとすぐ、教育議論はロマンティックな方向に旅立つか、極端に近視眼的実用主義に拘泥してしまうし、いずれも「子ども」のことを考えていると思い込んでいて、教育と社会の話を混同し教育に一元化した話としてしまうのだから。

 

以上2点、どっかで聞いたような意見であった。このブログそのものがポエムであることは否定しないし、ポエムを語る場もやはり必要であるというのが投げやりな結論である。

 

学問の世界に足を突っ込むことについて

大分このブログを放置してしまった。理由はいくつかある。例の道徳の特別の教科化の件に関してテレビを中心としたマスメディアの報道の仕方があまりにもひどすぎたからぶっ叩こうとしたが、「自分の知っていることを共有したいからこのブログを書いてるわけじゃない」と書くのが面倒になって挫折したり(ちなみに道徳の特別の教科化はについてはぜひこちらの資料群には目を通してから議論してほしい。道徳教育に係る評価等の在り方に関する専門家会議:文部科学省)、そもそもリアルで学問の世界に身投げしてしまって書く暇と気力が萎えてしまっていたりそんなところである。今回は、そんな自分の気力を萎えさせていた学問に身投げすることについて書いていきたい。まだ無知だからこんなことが書けるのである。

 

私は今、学問ごっこに興じている。教育学というごった煮学問の世界に飛び込んだつもりになっているわけだがやるべきことはなるほど多い。思わず魅入られて入院してしまう人が後をたたないのもわかる、麻薬的な面白さがある。私は特に、歴史に魅せられて傍から見たらくだらない資料群を発見しては奇声をあげそうになるのを必死に抑える努力を日々重ねている。なるほどわからん、という方も多いだろう。

 

人生において、学問に興味のない人の勉強の大半は教科書とそれの取り巻きで完結するに違いない。教科書には現時点での答えが書いてある。そしてちょっと調べてからもう一度教科書を読むとなるほど素晴らしくまとまっている。モノを少し知った感じになるにはあれ一冊で十分、というのもなるほど納得行く話である。

 

しかし、一度学問に魅せられてしまうと話が変わってくる。入り口は色々あるだろうが、学問に魅せられてしまうと「答え」には満足できなくなってくる。例えば世界史や政経の教科書に書いてある大まかな流れは流れなのだが本当にそうなのだろうかと、原典をあたってみたくなる。そしてあたってみるとたしかに流れはそうなのだが、もっといっそうわかった気になる。そして歴史上偉大と言われている人たち、ホッブズ、ロック、ルソー、カントやらなんやらが自分の前に生き生きと立ち現れてくる、ような気がしてくる。そして同時に底なし沼が見えてくる。ちょっと学問的に聞きかじった程度でも、教授の話をよく聞くようになると底なし沼がよく分かる(逆に知ってることも増えるから話の筋が非常につかみやすくなる)。一度学問世界への入り方がわかると目の前にうず高く「先行研究」が積み上がる。人類が積み上げた象牙の塔は遙かなる高みを持って卑しい私を見下ろしている。

 

ニュートンの巨人の肩に乗る小人の例えは有名だが、しっかりと巨人の肩の上に登って知の地平を見渡せるようになるには相当な鍛錬が必要なのだろう。この鍛錬が必要という点を自覚した上で象牙の塔を一歩一歩登っていくと、登ることを放棄してそこが頂上だと思いこんでわーわー喚く人が小さく見えるようになってくる。確かにもうちょっと引いてみてみると肩の上からモノを言っている人も、登りもせず、あるいは中途でわーわー喚いてる人も言っていることはだいたい一緒に見えるのだが、中から見ていると随分違うことがよくわかる。こんなことを言うのもわずかながらものがわかるようになった証拠かもしれない。私が最近、ブログを書こうとしては筆を折ってしまうのもだいたいここらへんが原因である。

 

私はこのブログを始めたときから、本当に自分が調べていることは書かないようにしようと心に決めている。自分が調べていることを書こうと思ったら論文テイストの語調でも何万字(どころの騒ぎではない)もの文字数が必要になるし、あるいはその記したことが検討不十分であることは自分自身で痛いほどわかるからである。直感的直情的に物事を記してわーわー喚けるのはそれが恥ずかしいことだとも思わない、門外漢なことに限る。現に大学教授だってたまに例え話などで門外漢なことに首を突っ込もうとして非常に重大な思い違いをし、学生の失笑を買っていることだって多い。それはそれで一向に構わないとは思うのだ。

 

ある物事を見る時に、少し本を読むとだいたい認識の枠組みがあることに気づかされる。教育に関する場合、卑近なところだとだいたい「実践学力観」と「知識重視学力観」の二元論で議論を処理できる。しかし、教育学は未熟な学問だから二元論で十分処理可能な側面があるだけで、多くの場合こんな簡単に説明できる枠組みはない。この枠組を何個持っているか、そしてその枠組をどれだけの種類、意識的に使い分けられるかがまさに学問的能力だと思うのだが、ここはまだ無知だから大言壮語できるところである。

 

とりあえず人文系学問をやるのだからと、西洋近代に手を出しアメリカプラグマティズムに手を出し、マルクスにも手を出した。手を出せば出すほど物事は沢山見えてくるが肝心の包丁を選んで切り刻んで深く理解するところまではいかない。ここがまだ未熟なところである。しかし、学問の世界に足を突っ込んだからこんなことも言えるようになった。もっと調べればスルメのように味が染み出てくるに違いないと日々、どこかの片隅で頭を抱えているし、あるいは誰かをこの沼に引き込みたいとやればやるほどムズムズしてくる。全く麻薬そのものである。