ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

なぜブログを書くのか~このブログについて

私は思考し、自分の思考を伝達しようと意志する。するとただちに私の知性が技巧(art)をもって何らかの記号を用い、それを組み合わせ、構成し、分析する。こうして1つの表現、1つのイメージができあがる。それは、以降の私にとって、1つの思考の―すなわち非物質的事実の―肖像(portrait)となる物質的事実である。肖像は非物質的事実を私に思い出させ、この肖像を見るたびに私は自分の思考のことを考えるだろう。 

―Jacot, Joseph., Enseignement universel. Droit et philosophie panéstique, Paris, 1838, 11-13
    訳はジャック・ランシエール『無知な教師』,梶田裕・堀容子訳,法政大学出版局,94 を参考

 

このブログは、ある大学で教育学を学ぶ一人の学徒が、ただ思いつくことをとりとめもなく書き留めた、「雑記」である。ブログの文体はひどく散逸的で、非論理的、かつ専断的で多くの誤謬を含む。けれど、このブログを書くことは、私にとって多くの意味を持つものと思われる。

 

ブログに現われた表現は、その時々の私の思考の参照点―「肖像」―である。多くの至らなさを含み、多くの不正確さに目をつぶり、恥も外聞もなく書いてみる。書いてみることによって私の思考は整理され、相対化され、確認可能なものになる。後から、いくらかの知識を得た後に、その参照点に立ち返ることで、私は多くの至らなさに赤面する一方で、無知ゆえに洞察していたいくつかのことを思い出すことが出来る。あるいは私が「至らなかった」論理を確認することができる。

 

これだけの理由であれば、チラシの裏に書き溜めておくか、よくて非公開の場に留めておけば良い。しかし私はこれを公開している。それは2つの理由による。1つは他者による「まなざし」こそが思考の整理に役立つからである。「誰か他の人が私のこのとりとめもない文章を読んでいる」というまさにその事実こそが、私に、私の思考を整理した、私が既に知っていることをくどくどと確認するような、ひとまとまりの文章を書かせるのである。(ただ単に私のための「メモ書き」であれば、内容は当然もっと短くなる。大抵読んだ本の引用一文とかその程度で済む。けれどそれでは残らないものがあるのだ。) 2つは、ブログの記事が生むコミュニケーションを楽しみたいからである。「チラ裏」を公開することで、誰か―それは私の知っている人かも知れないし、SNS上の全く知らない人かもしれない―が、それを読み、何らかの意見/感想をしばしば言表してくれる。これは、極めて有意で得難い経験である。

 

私は自らの興味関心の赴くままにブログを書く。その時々で読んだ本に影響を受け、時勢に刺戟を受けてものを書く。私は、私がここで書いたことについて、責任を持つ気はない。だから、確認するまでもないが、読まれる方も自由に読み、あれこれ言っていただいて構わない。匿名が生む「自由」を楽しみたいからこそ、私はブログを書いているのである。

 

思考はある精神から他の精神へと言葉の翼に乗って飛ぶ。一つ一つの単語はただ一つの思考だけを運ぶことを意図して送り出されるのだが、話す者の知らぬ間に、そして彼の意に反するかのように、この言葉、この単語、この幼虫は、聞く者の意思によって豊穣なものとなる。
―Jacot, Joseph., Enseignement universel. Droit et philosophie panéstique, Paris, 1838, 11-13
    訳はジャック・ランシエール『無知な教師』,梶田裕・堀容子訳,法政大学出版局,94 を参考

「みんなちがって、みんないい」言説を乗り越える

「みんなちがって、みんないい」とは金子みすゞが唄った「私と小鳥と鈴と」の一説である。

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のやうに、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。 

金子みすゞ,「私と小鳥と鈴と」

 

私は本稿で、この美しい詩そのものについてとやかくいいたいわけではない。「みんなちがって、みんないい」を押し付けてこようとする諸々の言説についてとやかく言いたいのである。一見、競争社会、市場社会において失われがちなモノ、コトの普遍的価値を称揚しているように見える「みんなちがって、みんないい」という言葉の専制的な横行が、多くの価値を不必要に相対化し、多くのものを見えなくしてしまっている。

 

こういうことを書こうと思ったきっかけを示しておこう。以下のツイートの(地獄のような)リプ欄を眺めたことがそのきっかけである。

 

 

先日亡くなった歌丸師匠が、「日本語であり、日本語の文化である日本の言葉を使って笑いを取るのが芸人である」、巧みな言語によらない「一発ギャグ」のような笑いは芸ではない、と主張しているものである。これについたリプは、うまいことを言っている人もいるが、「いろいろな笑いを認めようとしない老害」とか「ジャンルが違うのに芸じゃないとは言えない」とかそういうたぐいのものが多い。いわば「みんなちがって、みんないい」をいい、そうした価値観を唱えようとしない人を無意識に排斥しようとする言説の数々が唱えられているのである。

 

こうした言説の末恐ろしさはたちどころに理解できる。彼らは恐らく、「主張」の言わんとすることを何も聞こうとしていない。ただ、歌丸師匠が「みんなちがって、みんないい」という価値観に立っていないこと、言い換えれば「何かを価値がないものだと言おうとしている」ことのみをあげつらって批判しようとしているのである。歌丸師匠が言いたかったこと、その言葉の背景とか含みと言ったもの、そういったものを全く見ようとしてはいない。ただ、病的に、「みんなちがって、みんないい」という見方をとっていないことに腹を立てているのである。

 

こうした、いわば「多様性全体主義」とも呼べる(一見あべこべな)考え方はあちこちに蔓延している。確かに、今なお多くの状況において、本来斥けられるべきではない価値の多くが無下に扱われ、尊重されるべき多様性が排斥されていることも事実である。しかし、「多様性は尊重されるべきである」ということが強く言われるあまり、何か特定の価値/考えを追求しようとする姿勢が、排他的で反=多様であるというご無体で表面的な批判が横行してはいないだろうか。

 

教育現場に引きつけて考えてみよう。現場では、しばしば、先生の考え方、教えようとする方向に反した意見を持つ子ども(しばしばその意見には正当性があることが多い)が排斥され、先生の思い通りの答えを言う「いい子」の意見ばかりが評価される、という状況が蔓延している。しかし、現場にはまた、「みんなちがって、みんないい」を否定できない空気感も蔓延してはいないだろうか。先生の考えを植え付けることに腐心する排他的な指導が存在する一方で、「AさんもBさんもみんなちがって、みんないい意見をいっていますね」とまとめるばかりで、そこからどんな価値が取り出されるのか考えようとせず、あるいはAさんとBさんの意見がなぜ/いかに異なっているのかを考えようとしない指導も蔓延しているように思われる。「みんないい意見」なのだから、その「いい意見」に対立する意見を述べることは暗に勧められず、当たり障りのない意見、抽象的でふわふわしていて、なにか言っているようで何も言っていない考え方をすることが「よいことなのだ」という風潮が形成される。そして、こうした風潮が「多様性全体主義」へと向かっていくのである。確固たる意見を持つこと、何か特定の価値に専心し、それに向けて活動していくことは「みんなちがって、みんないい」を否定すること、望ましくないこと、と考えられるようになっていく。

 

しばしば、グローバル時代の問題と絡めて「他者を尊重すること」と「自分の意見を持つこと」がセットで論じられる。前者的な考え方が肥大して「みんなちがって、みんないい」言説が全体性を帯びれば帯びるほど、後者的な「意見」は大衆迎合的で当たり障りのないものに堕していくことは容易に想像がつく。大衆迎合的になる、とはすなわち支配的なものの考え方(現在で言えば資本主義的なモノの考え方)に阿り、それを強化していこうとすることを意味する。これは、まさに「多様性全体主義」が生む非=多様性、すなわち全体主義的体制そのものではないか。そして現に、グローバル時代に国籍を問わない多くの人が交流するようになったにもかかわらず、世界規模で価値観の不寛容な統一がなされているように見えるのである。世界は消費的で反射的な正義言説に溢れ、そこからはみ出す価値観/考え方は疎外され、匿名性の森のなかに潜伏し先鋭化していっているのである。

 

 

「みんなちがって、みんないい」と言うことはいい。そう言うことによって多くの価値が承認され、いまよりもずっと他者も自己も生きやすくなるかもしれない。しかし、そうした価値観を全体化させてはならない。同時に考えなくてはならないのは、「自分の意見を持つこと」、すなわち特定の価値観、考え方を追求し、その先端から世界を見つめてみようとすることであり、そうした見方にたとうとする他者の意見に傾聴し、自らの意見を更新していこうとする姿勢である。「みんなちがって、みんないい」は節度を守って使われねばならない。

 

 

『万引き家族』雑感~倫理とか家族とか

==ネタバレ注意==

 

足掛け1ヶ月以上かけて取り組んできた一連のレポート作成が終わったので、流行りにのって『万引き家族』を見てきた。この映画については告知を見たときからなにかブログに書いておこうと思っていた。しかし、いざ書いてみようと思うとなかなか進まない。進まないままに1週間が過ぎ(またそうこうしているうちに2週間が過ぎ)てしまった。この「書き進まなかった」ということを記したほうが雑感としてふさわしいのかもしれない、と思い直している。まずつらつら構成その他諸々についての雑感を記して、「倫理とか家族とか」をテーマに感想を綴りたい。

 

・雑感

本作をどう読むか、鑑賞したその日から私はいろいろな可能性を考えてきたた。例えば、『万引き家族』を物語の束としてのテクストととって、一人一人の人物の物語へと読みほぐしていく読み方とか。しかし、どうにもそうした読み方には歯抜け感が否めない。正確に言えばそこで綴られた諸々の言葉に興ざめ感が在るのである。ではこの興ざめ感とは何なのだろうか。それはこの『万引き家族』という映画が社会派チックすぎるからかもしれない。あるいは、それがわかりやすい「救い」を含まないからかもしれない。そんなことを今は考えている。

 

万引き家族』を最も素直に受け止めれば、それは社会問題の告発として捉えることができるのかもしれない。確かに映画では生々しく貧困が描かれている。貧困とは、モノやカネが不足していることでもあるが、根本的には消費や思考のモードそれ自体が「貧困」化してしまうことを言う。収入はないのに酒・タバコ・パチンコはやめられない。ガラクタは多いのに必需品には事を欠く。目の前の「生」に精一杯で先のこと、他者のことが考えられない。そうであるのに「生活保護」などの制度を利用する方向に向かうことはできない。(もちろんこれは『万引き家族』が「違法」状態であったことにも起因する)こうした有様を貧困状態、及び貧困の帰結として考えることができる。

 

万引き家族』で描かれた貧困を巡る社会問題ーJKリフレ・子どもの貧困・未就学児・児童虐待(ネグレクト)などーはいずれも現代日本において深刻化しつつある問題である。『オールウェイズ三丁目の夕日』などで描かれる「貧しさ」とは異なる後ろ暗さを感じる貧困である。こうした問題は普段の我々からすれば見えにくい。ニュースなどで報じられていても、現実に見えないから、「そんなことはあるのか」という気持ちになりやすい。しかし、「見えない」ことこそが(構造的)貧困の本質なのである。『万引き家族』もまた、ほとんど誰にも見られてはいなかった。(見られないからこそ歪な紐帯が成長し得たとも言う)そして、「公」の光に「発見」されることによってその紐帯は解体/破壊されたのである。

 

もちろん、『万引き家族』の魅力は、こうした社会の暗部を克明に描き出したことのみにあるわけではない。そこで描かれる「人間」ー偽りの家族ーの生気もまたこの映画の魅力であるように思うからである。けれど、この点について、私はなんとか書こうと思っては書き棄て、を繰り返してきた。なぜか。1つには、そこに含まれている物語が多すぎるのである。取って付けたような物語が多いように思われる。何かを読もうと思えば読める、しかし、読み込むほど深みのない物語が多い。少し読み込もうと思えば社会派くささが漂ってくるのである。あるいは、この物語のもつ絶妙な救いの無さに原因があるのかもしれない。しかし、これもまた、ある意味で社会派くさい手付きであるように思われる。凛(一番下の女の子)は家に連れ戻され、治(お父さん)は成長せず、亜紀(JKリフレで働く女の子)に至ってはその先を暗示するものがほとんど見いだされない。なんとはなしに、こうしたキャラクターが、社会派的な手付きのもとに創られた、うさんくさい、取ってつけたような(興ざめの)道具に見えて仕方がないのだ。

 

取ってつけたような道具は、この映画の随所に登場するように思われる。初枝(祖母)がたびたび訪れる元旦那の子どもの家族が例えばそうである。この家族は「いわゆる」中流のイメージを描きすぎている。確かに貧困の対照(コントラスト)として、都合のいい道具かもしれないが、あまりにも典型的すぎて、都合が良すぎるように感じてしまう。あるいは大和屋(雑貨屋・駄菓子屋)のおじいちゃんについてもそれが言える。祥太(息子)の変化の契機として道具的に使われている。そして、わかりやすく「忌中」になって、物語の舞台から退場させられていくのである。

 

こうした諸々のうさんくささを取り払ってみて、このテクストに残る物語は祥太の物語くらいだろうか。祥太が自立し、親を乗り越え(殺し)ていく物語として、このテクストは十分に読み込むことが出来る。万引き→懐疑→補導→釣り→歪な雪だるまと展開する物語はなかなか複雑であるが、彼を自立に導いたのが「凛」である、として見る読み方が最も素直だろうか。彼は被保護者であると同時に保護者になった。家族としての「名」を与えられることで、彼は偽りへの懐疑を持ち、それを壊すことにしたのだ。彼は壊すときーあえてつかまろうとするときー笑顔だった。その笑顔こそが、この映画の1つの到達点であろう。

 

 

・倫理とか家族とか

どうにも映画に対して批判臭い雑感になってしまった。しかし、私はこれらを持って、『万引き家族』がつまらない映画だとか、見る価値のない映画だとか言う気はない。むしろ様々な人が見て、何を感じたか語っていくべきたぐいの映画であろうように思う。であれば、私もそれを記すべきであろう。なぜ書き進まなかったのかを乗り越えて、感想を書くのが以下である。便宜的に「倫理とか家族とか」というサブタイトルを振っておいたのもここにあたる。

 

さて、感想を見やすくするためにサブタイトルをパラフレーズしておこう。私がここで問いたいこと、それは以下の二点である。すなわち彼らは倫理的であったのか、彼らは家族的であったのか、この2点である。まず前者から論じていく。

 

彼らは倫理的であったのか、『万引き家族』に寄せられた数々の下世話で読むに値しない感想の多くはこれに無条件のNoを突きつけている。曰く、いかに貧困であっても万引きはよくない、故に彼らに同情はできない、とかその手の感想である。あまりにも「貧困」なテクスト読解には辟易せざるを得ないが、1つだけ言っておこう。果たしてそれを指摘する人々は「万引き」をしていない、と胸を張って言えるのだろうか。この場合の万引きとは、店に売られているものをくすねる、いわゆる「窃盗罪」に該当する行為だけを指すのではない。「貧困」を無視しながらー彼らを「見えない」ものに留め置きつつー彼らの労働の成果を(「正当な」市場価値から見れば不当な価格で)収奪してはいないだろうか、という問いかけである。なるほどこうした収奪は資本主義体制のもと、ある程度認められている。いちいち、たとえば牛丼チェーンで牛丼を食べながら上のようなことを思っていたら肩が凝って仕方ないだろう。私は常にこうしたことについて罪悪感を持て、と言いたいのではない。しかし、この収奪はあまりにも行き過ぎてはいないだろうか。それを看過し、「万引き」をただ違法だからと盲目的に咎めることに、一体どれだけの正当性があるといえるのだろうか。そして、こうした視角から見て、万引き家族の「倫理」を捉え返してみたとき、彼らのそれは別様に見えてくるはずである。そう捉え返してみうることにこそ、この映画の1つの特質がある。(※)

 

次に家族に関する問題について。これについて、我々は常日頃、「家族」という関係性にあまりにも多くの本来付ける必要のないイメージを付け加えているように思われる。曰く、血がつながっていなくてはならない、とか、親密でなくてはならない(≒血がつながっているならば当然親密であるはずだ)、とか。前者は今作の舞台設定であるからいいとして(※2)、後者について、「親密でない家族」という多くの例外が日々我々の眼の前で展開されているにも関わらず、我々はこうした観念のもとに多くの人(あえて子どもに限定しない)を悲惨な状況に閉じ込めようとしてはいまいか。児童虐待とかDVとかそういう事態にとどまらない大小の暴力が、大小の幸福と同様の頻度で持って家庭ー私圏ーでは繰り返されている。だから私圏は解体されるべきだ、と論じるのではない。なぜなら、私圏は外の世界と隔絶された、いわば囲炉裏の暖かさと暗がりに包まれたような、ある種充足的な空間であるからである。囲炉裏の暖かさなくして我々は外の世界で生きていくことは出来ない。しかし、その囲炉裏の暗がりを不可知のものとして、全く見つめようとしないこともまた許されないだろう。フェミニズムの有名な標語に「個人的なことは政治的なことである」(The personal is political.)という言がある。これが全面的に正しい言説であるとは思わないけれど、個人的な事柄のある種の政治化ー不断の捉え直しーもまた、肝要であろうように思われる。そしてこうした文脈で問い直してみるのだ。「彼らは家族であったのか」と。

 

 

おそらく映画を見て、我々は各々問い返すべきなのだ。今まで当然だと思ってきたこと、あるべきだと思ってきたあり方、見つめようとしてこなかった存在を。そうして何かを、自らの今までのものの見方で把握しきれない異質な何かを、自己の中に付け加えるべきなのだ。『万引き家族』はこうした見方に耐えうる映画である。

 

 

※:こうした物言いは、一種のマルクスっぽさがある。「マルクス」といえば一般には何か腫れ物を触るように思われるかもしれない。ソヴィエトの崩壊ー資本主義の「勝利」ーとともに彼の思想は「死んだ」ものとして埋葬され、未だ彼を取り上げ活動を行う人々は時代遅れの「新」左翼であるなどと思いなされているかもしれない。しかし、マルクスの思想は死んだのだろうか。未だ全く乗り越えられないまま、我々はソビエトと有象無象のマルクス主義者たちが敗れ去ったことを当てこすりにして、それを無視しているだけではないだろうか。私はマルクスの描いた理想を盲目的に実現せよ、とかそういうことをいいたいわけではない。マルクス主義者を自称する気もないし、それを専門にする気概もない。ただ「マルクス」が不当なレッテルのもとに無視されていることを指摘したいだけである。これには2つの起源がある。1つはまさに本稿で指摘するところの、盲目的な遵法意識ー秩序的精神ーである。マルクスの思想は正しく反ー支配秩序的である。しかし、反ー秩序的ではない。秩序を支配的イデオロギーから別様に作り変えようとする思想である。盲目的な遵法意識は結果的に支配的秩序の専制を強化している。もう1つは、彼の遺産を継承したと自称する有象無象のマルクス主義者たちである。彼らによって作り変えられたマルクスの思想は、その本源的な問題提起の多くを脱色し、拡大/縮小解釈してしまった。彼らの理論が破綻したとき、当のマルクスもまた破綻したように思いなされてしまったのである。もちろんマルクスの議論に一切の問題がないわけではない。しかし、そ種々の問題は、彼の「問いの立て方」を全面的に棄却するものではない。

 

 ※2:血の繋がり=肉親、というのは本来的な意味で必要な条件であるのかもしれない。血のつながった親子関係というのは、存在論的な次元で代替不可能であるようにも思われるからである。こうした代替不可能性を援用して、児童虐待が当の子どもによってなかなか告発されない事態を分析する見方もある。血がつながっていなくても代替できる親の役割とそうではない役割、そうした切り分けをせずに、一概に「血縁関係は親子関係に必要ない!」と切り捨てるわけにもいかないだろう。後者的な発想を突き詰めていけば行き過ぎたジェンダーフリーの観念と同じ、カルト的で全体論的な次元にたどりつかざるをえないように思われる。制度指向を持った過度の平等主義者が陥りがちな陥穽である。

教育は何のために〜アイデンティティ、個性、限界

Twitterを眺めていたらこんな漫画を見つけた

 

言ってしまえばよくある「教育」への疑問というやつである。このツイートが多くの共感を集めていることからもこのことはよくわかる。そして別段、この疑問を「ありきたり」と切り捨てるためにブログを書いているわけではない。(教育学を専攻する院生がこのレベルの問題提起で満足している、というところがとても学芸大っぽい気がするが、別に問題提起そのものが即座に問題なのではない。)この疑問を受け止めながら教育学徒なりの私論を展開するためにブログを書いている。まず、論点を整理し(①)、次にありがちな議論がはらむ問題を指摘し(②・③)、最後に「それでは何ができるか」を記す(④)こととする。

 

① 論点の整理

この漫画が提起している問題を、いわゆる「受験のための教育批判」と取ると少し認識がずれるように思う。簡単にまとめれば、「自分が何者であって、自分が何をしたいのか」にコミットしようとしない教育への批判である。教育を授けてくれる周りの人はみんな自分のことを思ってくれていたはずなのに、その結果できた「自分」は、今目の前のことを云々するのに必要な能力さえ持つことができていなかった、という気付きが教育への疑問へと捉え返されれている、と見ることができる。

 

② 確認すべきことー「教育って何だろう?」という問いの意味

「 教育はなんのためにあるか」。この問と、「よい教育とはなにか」という問は全く同じことを言っている。「教育ってなんだろう?」と問うその背景にはすでにその人自身の考える「よい教育論」が紛れ込んでいる。この漫画を書いた彼女の考える「よい教育」とは端的に言えば、「アイデンティティ形成にコミットする教育」であると言える。(本来的な「アイデンティティ」概念からするとこのまとめ方は幾分誤用であることは認識しているがご容赦いただきたい)確かに、教育はアイデンティティ形成に結果的に強く影響を与えるだろう。しかしそれはあくまで様々な要因が絡まった「結果」の議論でしかないことはしばしば見落とされる。教育は、アイデンティティそれ自体を「形成する」ものではないのだ。アイデンティティはあくまで個々人の間で同定されるものである。この漫画がそうした誤謬を犯している、とは言い切れないがそうした誤謬を呼びかねない漫画であることは確かである。

 

こうした、アイデンティティという、本来「自ら」の側で形成されるものを「教育」の役割として語ろうとするような、いわば「結果的にそうであること」と「役割としてそうあるべきこと」を取り違えた議論は時折散見される。その代表例は「自己肯定感」に関する議論と「個性」に関する議論である。これらもすべて、諸々の要因の上に個人の中に築かれる「結果」であって、それ自体教育の目的とはなりえない。こうした観点からすれば、教育の役割を「自己肯定感を高めること」とか「個性を伸ばすこと」に設定するのはナンセンスであるといえる。

 

③ 「アイデンティティ形成」が教育の役割論(目的論)としてふさわしくないわけ

②において、上記のような議論は「ナンセンス」であると指摘したが、それはナンセンスである以上に有害でさえある。この事を少し確認してみよう。

 

教育の役割論として、本来「自ら」の側で形成されるものを取り入れてしまうことはいくつかの悲惨を生むことになる。1つは、それが評価され選別されるものになることであり、もう1つは、子どもの側にあるはずの、そうした「在り方を形成する能力」を奪うことにつながることである。

 

1つ目について、教育の役割を論じるとは、教育の「ゴール」を設定しようとすることと同義である。一度「ゴール」がセットされれば、「ゴール」に則って教育の「効果」が測定されることになる。これは、「「教育」という営みは、子どもに対して調整された「効果」をもつべきであり、その効果のために大人はコストを割いているのだ」、という我々に広く浸透している意識のために、すぐさまなされることになるだろう。この効果測定の時、実際に「評価」されるのは教育の成果ー教育を受けた子どもたちーである。そして、評価するということは、すなわち優れた者と劣った者を創り出すことである。こうした価値観は、「アイデンティティ」や「個性」を教育の役割論として据えたときに、極めて悲惨な結果をもたらすものになりはしないだろうか。というのも、特定の基準に基づいて「アイデンティティ」や「個性」が評価され序列化されることになるからである。無論今でもそれは、大雑把に言えば「学力」という基準で為されていることである。しかし、「アイデンティティ」とか「個性」とかいうおおつかみの、個々人の側で形成されるものを教育の役割論に転じれば、今まで序列化の対象には、(少なくとも明示的にはなっていなかった)個々人の性格とか、趣味とかそういったものまで含めて序列化されることに繋がるのだ。これは大きな悲惨であろう。(※1)

 

2つ目について、こちらの方が現在進行系で置きている重大な問題である。言い換えれば、アイデンティティ形成だとか、個性を伸ばすことが「教育の役割」にされた結果、個々人によってそれが獲得されるものだ、という視点が忘れ去られていくのだ。アイデンティティが定まらないこと、「自分らしさがない」ことは「教育のせい」に棚上げされて、自分がそれを選択できない、という事実は棚上げされる。これは、「教育」をある種理想化し、サンドバックにすることで自らの責任を逃れようとする思考である。これはあまりにも貧しい発想であると言わざるを得ない。

 

しかし、こうした恨み節に一分の理もないわけではない。というのも、教育は確かにアイデンティティとか個性とかいうものにコミットしてこなかったかもしれないが、それ以上に「教育」という営みによってそれが妨げられていたのではないか、という疑念を抱くことは至極まっとうなことであるからである。というのも、教育ーここでは近代学校教育のことであるがーの目的の1つは、近代社会に相応しい個人の育成ー規律化ーにあるからであり、現に教育現場の多くにおいて、「出る杭」を叩き潰し、「みんなで同じ方向を向く」ことこそが「教育」の名のもとに行われているからである。けれども、それを持って自らがアイデンティティを獲得できないこと、個性がないことを教育のせいにのみ帰するのはお門違いである。なぜなら、それはいついかなる時であっても、「自ら」獲得すべきものだからである。この事を忘れた議論は、1つ目に指摘したような悲惨を招くことになるだろう。

 

④ 教育には何が出来るか

ここまでの議論は否定論ばかりであった。これは認めざるを得ない。教育には○○を求めてはいけない、とか、教育には○○はできない、とかそういった議論ばかりであった。ただもう少しだけ「~~でない」という議論を続けることをお許しいただきたい。

 

以前もこのブログで引いたが、社会学者のルーマンは教育について次のように述べている。(というかここまでの議論の展開の仕方もルーマンっぽさがプンプンする。自戒も込めて)

 

教育者は、後で生じることを知ることはできない。だが、彼は何かが生じることを知っている。……教育は、社会化をただ別種の差異経験をとおして変化させることができるだけだ。
Lihumann, Niklas, 1987, “Strukturelle Defizite. Bemerkungen zurs systemtheoretischen Analyse des Erziehungswesens,” Oelkers, J. u. a., hrsg. “Padagogik, Erziehungseissenschaft und Systemtheorie.” Weihheim/Wasel; Beltz Verlag.;67f

 

こうした議論を踏まえて、しかし問い直そう。教育には何が出来るのだろうか。特に、冒頭で引用したツイートの「疑問」にどう応える事ができるのだろうか。

 

1つ目に、ルーマンを引き受けながら言うとすれば、子どもを支配することをやめようとすることが可能である。言い換えれば、教育の限界を確定しようとすることである。子どもは、我々大人(もはや、このようにくくられる側に私も入るべきなのだろう)が考えているようには振る舞ってくれない、偶然的で不可解な存在ー自己創出する存在ーである。それを我々が理解できる形へと押し込めようとするから無理が生じるのだ。もちろん後述するように、いくつかの面において子どもは支配されなければならないだろう。しかし、必要を超えて子どもの行末を支配しようとすること、子どものあり方を規定しようとすることをやめるべきであろう。そうすれば、少なくとも、個性やアイデンティティを抑圧することから教育は自由になる。

 

2つ目に、子どもを「守る」ことである。何から守るのか、すなわち取り返しのつかない様々な出来事、考えからである。子どもを全く支配しないことは取り返しのつかないあやまちを生む。子どもがいかに制御の効かない存在だとしても、車の前に飛び出す子どもの行動をほっておいたのでは取り返しのつかない事故を生む。「いじめ」を放置することも同様である。「自分」についてうまく理解できていない子どもは、他者の痛みもなおさらうまく理解できないからこそやりすぎる。(理解できないというよりは「限度」がわからない。他者に共感する力は、たくさんの言い訳を覚えた大人より素直に発露されるだろう。)こうした種々の取り返しの付かないことに関して、大人は支配的権力でもって、それを統御しなければならない。その権力の方法は様々であるが、最も効果的なことは、「愛」「信頼」などという言葉の裏にその権力を仕組み、子どもがそれを認識できないような形に留める方法であろう。物理的に、あるいはきつい言葉に頼って支配するよりよっぽど効果があるし、日々巷のお母さんたち、先生たちがやっている方法である。(ただしこうした支配の方法は効果がありすぎる。そしてそれが「支配」であると認識されなさすぎる。「あなたのためを思って」とか「あなたを愛しているからこそ」などという言葉によってどれだけの子どもが惨めに虐げられ、絶望してきただろうか。)(※2)

 

3つ目に、子どもが「画一化していこうとすること」を止めることである。「人と同じこと」は、極めて居心地がいい。他の人と同じ意見であること、他の人と同じ格好をすること、他の人と同じ進路を選択することは極めて居心地がいいのだ。だからこそ、子どもはしばしばそちらの方になびこうとする。もちろんこの「なびこうとすること」は、全ての子どもに共通するわけではない。同じであろうとすることに気味の悪さを感じ、そこから離脱しようとする子どもも多い。しかし、その子らも「人と違うことをしたい」という思考へと画一化していこうとするのだ。

 

こうした画一化へ抗うには、一つのことを思い出させるだけでいい。それは、すべての人はそもそも「違う」ということである。顔貌に始まり、性格から何から全て違う。誰かと違うことは何も特別なことではないのだ。だからこそ、同じになっていこうとすることに対して適宜「中断」を挟み込まなければならない。「あなたはどう考えますか?」「あなたはなにがしたいんですか?」などというように。これを問うこと、これを考える体験を与えることは、教育において十分可能であろう。

 

 

おそらく、教育に出来ることはまだまだ多いだろうし、上記のうちにも思わぬ陥穽が存在していることは疑いのないことである。それゆえ、「現在の私の教育論の到達点」として、この当たりで止めて/留めておこうと思う。とりあえず「教育って何だろう?」から「教育には何が出来るんだろう?」へと問いをずらしてみることから始めるとよいのかもしれない。(※3)

 

 

※1:もちろん、我々の性格とか趣味というものだって別の尺度で常に序列化に晒されているし、序列化の眼差しを向け続けられている。ある性格は優れた性格であり、ある性格は劣った性格である、ある趣味は優れた(好ましい)趣味であり、ある趣味は劣った(ダサい・つまらない・キモい)趣味である、なんて議論は枚挙に暇がない。こうしたある種の価値規範が「見えない」こともそれはそれで問題である。フーコーが指摘するように、一方的な眼差しこそが最大の権力である。それらの権力を「暴く」ことはもちろん重要であるが、それを教育の価値として一元的に開示していくことが重要であるとは思わない。

 

※2:「愛」とは最も効果的な権力行使の方法である。そして、ときに最も悲惨な支配を生む源泉でもある。「博愛」を掲げたフランス革命がいかに悲惨な最後をたどったか、想起すれば理解できるだろう。「愛」のみに依ってたつ関係性は私的関係を越えて適用されるべきではない。それは適切にコントロールされるべき情念であり、無制限に適用されるべきものではない。(このことはしばしば忘れ去られ多くの「メンヘラ」「共依存」を生んでいる。ただしそれが私的関係のうちに留まっているのであれば、大上段に構えてとやかく言う話ではない。本人たちが納得しているならそれでいい。)それゆえ、教育関係としても「愛」は適切ではない。ここにペスタロッチを始めとして多くの友愛的な教育者の陥穽が存在する。

 

※3:今回の議論は、ルソー、フーコールーマン、ビースタを混ぜ合わせながら現代教育批判のスパイスと私論を混ぜて「ガチャガチャポン」とした感じである。本論全体において、例えばランシエール(『無知な教師』)の教育批判への応答は出来ていないことを書き留めておく必要がある。本論の議論もまた、大枠で言えば「説明家の論理」としての誹りを免れない。あるいは、超越論を背景においたような議論をあえて展開していない。そして個人的「興味」は後者にある。このことも加えて付記しておく。

 

 

  

 

教育とスポーツ―日大「タックル」事件に対する雑感

日大アメフト部の故意タックル事件の炎上が収まらない。当該行為の異常性もさることながら、火に油を注ぎまくる大学当局の対応がここまでの炎上を引き起こしていることは言うまでもない。(さっさと謝罪すればいいのに)しかし、この話題をこれほどまでに重大なものにしているのは、それだけではない。「なぜ、あんなプレイが起こったのか」という問の背後に重大な構造的問題がちらつく(ダブって見える)からであろう。

 

もう散々議論しつくされているが、本件と絡めながら「プレイ」の背景、あるいはその後の対応の背景に関する問題として、ハラスメントに関する問題、勝利至上主義の問題、体育会閥による学校経営の問題などが取り上げられている。それぞれについて詳細に検討する気はないが、多かれ少なかれ、様々な競技スポーツ/チームで度々問題となることの多くをこの問題は含み、かつ明瞭な形で我々に示してくれる。

 

では、立ち返って考えよう。なぜ、一見すれば、ここまで暴力的で抑圧的なものを生みうる、スポーツなるものを「教育」として導入しなければならないのだろうか。このことを考えることが本論の簡単な趣旨である。ちなみに私は本論で教育とスポーツをめぐる、教育学のありがちな議論というやつをまとめて、それをまとめて批判してみようと試みている。

 

 

古代ギリシャより以前から現在にかけて常に、「身体を動かすこと」は重要な内容として教育の中に組み込まれてきた。現代にあっても、「学校」という箱は、他のどこの施設にも負けないくらい大きな運動施設や資源―校庭・体育館・テニスコート等―を持っていて、それを持つことに対して莫大な予算が投じられているのである。

 

なぜ「身体を動かす」ことがこれほどまでに重視されるのか。その意義は、教育学の初めの方で習う有名なフレーズに集約されている。曰く「健全な精神は健全な肉体に宿る」。この「健全な肉体」を養うのが「身体を動かすこと」、本論の文脈に沿って言えば「スポーツをすること」というやつである。(念の為注釈を付けておくと、フーコーの権力論の話をここでする気はない。確かにスポーツ振興と学校が生みだす権力の関係性に関する議論にフーコーを導入することは至当と言えるし、本論で書かれていることより気づきが多いことであろう。しかし、それは本論で書きたいことではない。)

 

また、スポーツには、ただ「身体を動かすこと」と比べて欠かすことのできない大きな特徴がある。それは「ルール」が存在することである。ただ身体を動かすだけなら我々はいつでもやっている。それを特定のルールに拘束された形で行うことで、それが「スポーツ」になる。

 

ルールが存在することは大きく分けて次の2つのメリットが有る。そして、このメリットによって、スポーツは、「健全な肉体」を涵養し、以って「健全な精神」の発達に資するのである。1つは、自らの身体の動かし方を正しく知ることができるようになる、という側面である。特定の器具を用いて、あるいはフィールドにおいて、あるいは広く「ルール」に従って、自分の思った通りに身体を動かす訓練をつむことで、人は、それをする以前よりも自らの身体のことをよく知るようになる。これによって、人は一般化出来る高い身体能力を獲得することができる。(形式陶冶っぽい言い回しである。ちなみにこれは知的能力の発達にも応用できる議論である。なぜ「レポートの形式」なるものがあるかは、この論理で導くことができる。 )

 

もう1つは、ルールが存在する、というまさにその事実こそが、明白な勝負を成立させる、ということである。ルールがあって初めて勝ち負けが生まれる。日々の中でも我々は多くの「勝ち負け」を付ける必要に迫られる。そうした時に必要なのは「ルール」であること、ルールを遵守した上で、それをより公正なものとするために取り組んでいくことが求められることなどが、スポーツに取り組むことで理解される。(しばしば、こうしたスポーツの側面を取り上げて、真のシティズンシップとはスポーツマンシップに類似する、なんていい方がされる。)

 

 以上のようなことが、学校教育にスポーツを取り入れる今日的な意義である。「今日的な」というのは、過去においてはスポーツを取り入れるもっと実際的な意義(戦場で生き残るとかそういうたぐいのもの)が存在していたからである。

 

 

しかし、学校教育の現場のみならず、ひろくスポーツを取り巻いている雰囲気を見ていると、上記のような意義はどうにもうまく達成されていないことに気付かされる。健全な肉体を持っているはずの人びとが、全く不健全な精神性に落ち込んでいる、という状況はままある。教育学の有りがちな議論では、この原因として、スポーツに、他者と比較した「勝利」を追求する競技性が過度に持ち込まれたからだ、と診断しようとする。

 

ここで、よく言われるスポーツに関する区分を導入してみる。1つは、仮に「競技スポーツ」としよう。それは勝利を追求することに主眼を置いたスポーツへの取り組み方である。もう1つを仮に「娯楽スポーツ」としよう。それはスポーツをすることそれ自体に主眼を置いたスポーツへの取り組み方であるものである。両者は、無論、スポーツの種類―アメフトとかサッカーとか野球とか水泳とか―で区別されるものではない。

 

教育学の議論でしばしば言われることは、本来教育的意義があるのは、「娯楽スポーツ」としてのスポーツであって、「競技スポーツ」的精神ではない、という論調である。これには確かに納得できる側面がいくつもある。そして、こうした観点―非=競技的なスポーツのあり方―こそが、日本の学校教育における「スポーツ」を巡ってひどく欠けている、という指摘もよく理解できる。これについて少し考えてみよう。

 

人は「他者と比較して優越したい」と(恐らく)思うものである。そしてそれを求める時、しばしば極めて残忍になる。例えばスポーツの勝ち負けにおいて、何か自分の納得行かないことがあった時、聞くに堪えない言葉を撒き散らす子どもたちを見たことがない人はいないだろう。しかし、日本の学校教育におけるスポーツは、この「他者と比較した優越」を殊更に煽っているように見えるのである。そして、私が上述したような、スポーツに固有の「教育的意義」が看過され、スポーツという手段が目的化されている、と言える。

 

学校教育におけるスポーツが、「他者と比較した優越」を強調する論理―「競技スポーツ」的論理―に偏重している、という例はいくらでも見いだすことが出来る。中学・高校で部活動(クラブ活動)こそが学校スポーツの担い手として見なされていることがその一例である。戦後、(結果的に)「甲子園」を一個の象徴として組織化された部活動は、「スポーツを楽しむため」に組織されているよりはむしろ、競技性に重きをおいて組織されていることは容易に理解できる。そこでは絶え間ない競争が行われ、他者と比して勝利することが求められる。そういう在り方ではない、いわば「サークル活動」のような部活動を見つけることは極めて困難である。こうした環境の中で、「体育」の時間にまで「競技性」が持ち込まれる。教育的意義を持つはずの娯楽スポーツ像はどんどん疎外されていく。

 

一方、娯楽スポーツは、こうした競技性とはなるべく距離を取ろうとする。そこから距離を取ることによって、ルールを持った運動としてのスポーツの教育的意義が顕在化する。そして、日々過去の自分を乗り越えていく成長の感覚を持つことで、「体を動かす」ことが極めて愉快なものへと変化する。この限りにおいて、スポーツは健全な肉体を涵養し、以って健全な精神を養うのである。だから、教育学の議論では、スローガンのように「競技スポーツ」から「娯楽スポーツ」へと唱えられたりするのである。

 

 

ここまで書いて終わるなら、どんなに説得的な議論であっただろう。「学校教育におけるスポーツを、競技スポーツから娯楽スポーツへ、一生涯楽しめる娯楽スポーツの経験的基盤へと作り変えるべきである。そして、これは喫緊の問題である。なぜなら、競技スポーツを追求する限り、学校スポーツは教育的意義を失い、日大「タックリ」事件のような、むしろ極めて反=教育的な精神を教えることになるからである」というように。しかし私はここで終わろうとは思わない。

 

 

私は、「競技スポーツ」的精神に基づいた経験なくして、「娯楽スポーツ」的精神が成り立つかどうか、幾分疑問を持つのである。果たして人は、過去の自分との比較の上に立って、それを乗り越えることのみを糧として、物事に全力で取り組めるのだろうか。世の中で「優れている」という承認を受けること―自己承認欲求を充足すること―を度外視して、「過去の自分よりは成長した」ことのみに価値を見いだすことが出来る人がどれだけ言えるだろうか。こうした、「承認欲求」の自律は、他者から優越しようと、何かに全力で取り組んだ結果生まれる感情であって、他律的な努力の経験を抜きにして生まれるものではないのではないだろうか。

 

 

もしかしたら私は、競争社会、メリトクラシーな世の中に毒されすぎているのかもしれない。というのも、上記のような一個の「諦め」とか「弱さ」は私の個人的経験から来ているからである。私は「競泳」を9年ほどやってきた。それなりに頑張ったとは思うが辛いことも極めて多かった。というのも、自分がどれだけ頑張っても及ばないものがあることをまざまざと見せつけられた9年間だったからである。私の努力に対するモチベーションのいくらかは、「他者と比べて自分が劣っていること」を認めたくなかったものであったという記憶がある。(いわゆる「負けん気」というやつである)こうした努力は競泳に関してはついに実らなかったけど、そのかわりにいくばくかの自律性を身につけられたようにも思う。

 

愚にもつかない結論を述べて記事を締めよう。必要なのは、(少なくとも学校教育における)スポーツの精神を、競技性にも娯楽性にも、どちらにも「偏重」させないことである。というのも、どちらかに偏重することで代えがたいものが失われるように思われるからである。必要なのは、「スポーツ」の名のもとに何らかの抗いがたい「暴力」が発生していないか常に点検することである。この点検を超えた先にスポーツをどう捉えるかは、それぞれ判断されればよい。そして、この点検さえ行っていれば、スポーツは、ぜひとも教育内容の一環に加えられる固有の価値を持っているように思うのである。

「教師」の役割とは何か

教育活動の担い手としての「教師」はいろいろな場面で問題になる。秩序だって教師に関する問題を書き連ねて様々論じようと思えばこんなブログなんて形で発信することでもない。ただいろいろとぐるぐると頭の中に渦巻いている考えとやらをまとめるための雑記である。

 

教師の役割論は、近年、様々な形で問題になる。だいたい「アクティブ・ラーニング」(これは学習指導要領上は死語である)のご時世にあやかって教師の役割変化として議論される。これからの教師は「教え込む」存在ではなくて、「学びをサポートする」存在に変化するなどと言われる。教師は教壇で超然と教える存在ではなくて、生徒が自ら考えること、「学ぶ」ことをサポートする存在になるべきだ、というように。しかし、この議論は役割論における重要な点を論じそこねている。すなわち、教師が「教え込む」存在であるか、「サポートする」存在であるかという議論と、教師が「よい教育活動を行う」存在か否かという議論は位相がずれているのだ。私見によれば、教師の役割は第一に「よい教育活動を行う」ことであって、彼がどういうスタイルで教育活動を行うかとは何ら関係がない。このことを少し書いてみる。

 

 

このことを議論するためにはまず「よい教育」を定義することが必要である。そして、それこそが教師の役割論そのものを規定する。しかしこれは極めて困難である。なぜなら、万人に共通する「良さ」が、少なくとも経験的な領域では想定しえないからである。(絶対的な「善性」は超越論的な、カント的に言えば虚焦点の領域に一応想定できる)それゆえ、ここでは暫定的に私にとっての「良さ」を定義しておこう。私にとってよい教育をする教師とは、私に新しい地平を見せてくれた/地平を見るきっかけをつくってくれた存在である。

 

こうした価値基準に従えば、その教師がどのような方法で教育活動(典型的には授業)を行ったかどうかはほとんど関係がないことがたちどころに理解できる。私が尊敬する「先生」というのは何人かいるが、その先生が「教え込む」存在であったことはしばしばである。これは、生徒がアクティブであるかどうかが、「よい教育」を測る指標ではありえないことの示唆でも有り、教師の役割論を「教え込み」から「サポーターへ」などというつまらない二項対立で終わらせてしまう不毛さもここから理解できる。

 

何にせよ、教師の役割を考えるためには、「よい教育とは何か」という問と向き合う必要がある。そして次に考えるべきは、それではそうした「よい教育」を行いうる教師に必要な条件とはなんであるか、という問である。ここで初めて「学び」の「サポーター」としての教師、なんていう話が出てくる。しかし、上述した通り、学びのサポーターであることは、よい教育をするための必要条件ではない。そんな態度をとらなくても学び手は勝手に学ぶこともあるのだ。

 

それでは、よい教育をすることを役割とした教師に必要な条件とはなんであろうか。たくさん知識を持つことか、学び手のことを理解していることか、それとももっと別のことか。とりあえずこの2つについても否定することから始めよう。

 

まず、「博識である」ことはよい教師の必要条件とはなりえない、という件について論ずる。確かに博識である教師は、よい教師である可能性が、そうでない教師に比べて高いことは確かである。しかし、よい教師である⇒博識であるは成立しない。これは「教授法」が下手くそだからとか、そういう問題にとどまる話ではない。そもそも、学び手が教師の知識を、教師が持っている方法で完全に取得することは、両者が違う人間であるという原則からして不可能であるからであり、逆に、教師が知らないこと、教師が意識していない多くのことを学び手は自ら学ぶからである。

 

次に、「学び手のことを理解している」こともよい教師の条件とは必ずしも言えない。確かに、学び手のことを理解している教師は、よい教師である可能性が極めて高い。一般論的に言えば、学び手の性格、水準などを理解していることは、よい教育を行うために王道とも言うべきことである。この理解のために教育心理学の知見を用い、「なるべく」よい教育を行おうとすることは極めて肝要である。しかし、学び手のことを全く考慮に入れていない「おしゃべり」が、よい教育であることはしばしばある。そして私の尊敬する「よい教師」が、全員が全員私の「よい理解者」であったとは思わない。 

 

 

では、私が思うよい教師の条件とはなにか。それは、端的に言えば「私」(この場合は学び手)と適切な距離にいる「他者」である、ということである。

 

例えば、教師が私の知っていることばかり、あるいは私と同じような論理でばかり話しているとしたら、私は彼をよい教師とは見なさないだろう。逆に、全く知らないことを、あまりにも全く知らない形で(例えば私が全くわからない言語で)教えられたとしても、私は彼をよい教師とはみなさない。あるいは、全く無遠慮に、抑圧的に、「私」の内面に至るまでズケズケと入ってくるような教師もまた、よい教師ではない。

 

この距離感を理解するためには、必ずしも個別の「生徒」を理解している必要はない。もっと普遍的で一般的なコミュニケーションの距離感を理解しているだけで事足りる。生徒との距離というのは、一つにかっちり決まるものでもない。比較的親密な距離感の教師があってもいいし、比較的超然とした距離感の教師があってもいい。ただし、どちらも離れすぎないこと、そして「離れていること」を自覚し振る舞うことがよい教師の最低条件である。

 

人は自らの先端においてしか学ぶことができない、という有名な格言が示すように、彼が私の外縁を刺激してくれるような、そういう距離感で語りかけてくれる場合において、教師はよい教師である。この語り、すなわち「教え」こそが私の外縁を突き崩す。私の外縁が崩れたとき、私は新たな視点を得、なにか彼が語っていること以外のことを含めて勝手に学ぶ。これこそが、おそらく第一義的な教師の役割である、と最近考えている。

 

P.S.

少しメタい話をしておこう。以上のような教師論、あるいは「教え」論は、大部分ランシエールやそれに影響を受けたビースタっぽさがある。白状して言えば私は最近それらのテクストに部分的に触れている。書いてみることで彼らに接近してみようとしていることも本論の目的であるが、私の結論が彼らとどれくらい違うのか、彼らを部分的にしか読んでいない段階で構想してみて比較検討してみることが本論のもう一つの目的である。

 

ビースタの話で言えば、彼は上記のような議論の前提として近年の教育界の風潮として「教育の学習化」という概念を導入し、アーレントレヴィナスを用いて「教え」の脱=学習化を論じようとする。アーレントレヴィナスを並列して用いることが正しい試みであるかは置いておいて、私はあえて本論をそれらの思想家のイメージから切り離して構想してみたことは一応書いておきたい。論文のような形にするのであれば、上記のような曖昧な「よい教育」定義は用いないし、ちゃんとアーレントを論じながらビースタとの峻別を論じようとするだろうが、あえてそれらをアンラーニングした上で、私にとって身近な言葉/経験に引き寄せて教師論を書いてみたかったのである。後で読み返した時に赤面したくなるような「至らなさ」があること、しかし至らなさの中にビギナーズラックを見出したい、という思いからわずかな字数にまとめてみた次第である。

 

semicrystaline.hatenablog.com

 

「自分らしく」なりたい人たちに寄せて

私は、最近自分の「言葉」を失いつづけている。これは、私が最近、すこしまともに勉強ができるようになってきた、ということに恐らく関係していると勝手に自負している。『シラノ・ド・ベルジュラック』において「実が無いだけ雄弁である」と言われていることの反意であるかどうかわからないが、自分がいかに「実」がないかを理解するにつけ、私は自分の雄弁さを失っている。

 

 

「言葉」を失う私が出来ること、それはもっと身近な、なんでもない経験を書いてみることにもある。少し回りくどく言えば、ある人生の一時期に存在する「他者と違う「何者」感」を失っていく「私」の物語を書くことであり、もっと直接的に言えば、「社会」への大きな不安と、「学校」への心残り、という、「今」の感情を留め置こうという試みである。そして恐らく、すぐ後に確認するように、この記事は、広く「自分らしく」なりたい人たちに寄せた記事になる。

 

 

アーレントは―という時点で既に私が「言葉」を失った証左であるが―次のように言う。

 

他人と異なる唯一の「誰」は、もともとは触知できないものである…。その人が誰であり、誰であったかということがわかるのは、ただその人自身が主人公である物語-いいかえればその人の伝記-を知る場合だけである。

ハンナ・アーレント,『人間の条件』

 

他人と異なる唯一の「誰」、すなわち「何者」かである「私」、表題のとおりに言えば「自分らしい」人は触知できないとアーレントはいう。「私」が誰であるかは言葉の網の目では捉えられず、誰であったかのみが「物語」という型式を取ってのみ、表象されうる。

 

私が2年前に嘆いていたこと(ブログ末尾にリンク)、それは自分がある側面において「主人公」であった高校時代を失ったこと、あるいは失ったように見えたことであった。そして今、私と同世代の大学生たち、すなわち「学校」という物語を担保してくれる場を捨て、社会に出ていこうとする学生たちが共有する不安もまた、似たようなものであるのかもしれない。日々、「企業が求める人材」に擬態し、同じ服を着て仮面をかぶる学生たち、別にそれが「つまらないこと」とか「批判されるべきこと」だとか言う気はなくて、そうなっていく自分たちに対する一種の不安と、今への名残惜しさを抱えていること、そういった感情を残しておきたいという意図がこの記事を書かせていることは、冒頭でもしてきした。

 

何かを卒えることと、どこかに入ること、この儀式を繰り返すことで我々の人生の青年期は消費されていく。家庭から幼稚園(または保育園)へ、そこから小学校、中学校、高校、大学とたどってきた私たちが向かう先にはいつも大きな不安とちっぽけな期待が入り混じっていた。その場その場で、「私」は「私らしい」物語の一端を紡いできた。最初、それがうまく紡げない時、我々は大いに不安を感じ絶望する。何やら必死にやっている内に、気づいたら丸く収まっていることも多い。あるいは、それを紡ぐこと、「意味」を見いだすことに失敗し、それをなげうってしまうことも多い。けれどそこから、大部分の人は立ち直り、今日も生きている。多くの人がここまできて、明日に進む。

 

 

ここで語り口を変えてみて、こういうエゴイスティックで脳天気で希望的な記述を揺るがしてみよう。

 

 

 

 

 

「お前は誰だ」

 

 

 

 

 

こう問われた時に、物語を紡いできた「私」は動揺する。物語の一端を披瀝してそれを凌ぐのも悪くない。けれどその物語がいかに「フィクション」であるか、自分には痛いほどよくわかる。なぜなら自分が自分について語る物語は全てフィクションになりうるし、現に一個のフィクションそのものだったからである。

 

 

 

 

「お前は誰だ」

 

 

 

 

また問われる。必死に私らしさを物語るのもの難しくなってくる。思いついて他の人の「まなざし」を考えてみようとする。他の人と比べて自分はどうだったか、この視点で物語を作ってみようとする。そしてだんだん絶望する。他の人とそう違わない自分、違ったとしても優れていない自分に。うんざりしているのにまた問われる。

 

 

 

 

 

「お前は誰だ」

 

 

 

 

そして気づく。「私」の物語が他者によって支配されていることに。他者がいて始めて私は物語ることができて、私らしさは、まさにその他者のまなざし、評価によって作られていることに。

 

三度、いつもと違う書き方をして、出来の悪い物語を作ってみた。「お前は誰だ」という問ほど、心臓に悪い、嫌になる問はない。そしてその先に「お前は他の人と同じつまらないやつだな」という他者のまなざしが存在することを想起することほど怖いことはない。けれど確かにそう言われることは想定できるのだ。私が私である必要はない。他の誰でもいい。私らしさはだいたい劣位なもの、克服されねばならない、と。

 

 

正直、ここからどう議論を展開しようものか、「言葉」を失った私は迷っている。レヴィナスの「顔」を用いて、「お前は誰だ」という問が、常日頃、他者との非=選択的で超越的な出会いを通じて投げかけられていて、私の私らしさは、なにも就活などというイベントに依らずとも、常に揺らぎ作り変えられていることをいってもいい。あるいは「私らしさ」は克服されねばならない、というメンタリティを作りだすメカニズムをアーレントの「社会的なもの批判」や「暗い時代」批判を援用して批判してもいい。しかし、こうした啓蒙的な書き口は今の私が記し残しておきたいことではない。

 

「ほんものの自分」とは何なのであろうか。サルトルは、「地獄とは他人のことだ」といった。そして、不可知で無遠慮な他者によって自分が決定されることに絶望しながら、そうではない「ほんものの自分」を表わそうとし、『嘔吐』しそうなロカンタンの日記を記すことによってそれをやり遂げた、とサルトルは自己評価した。そして劣位の自分を物語ることこそ「ほんものの自分」を表わすことなのだとした。そういう逆説的な意識が、ある時代の「芸術」の根底に存在することはトリリングが指摘する通りである。確かに我々は、追い詰められると退廃的になり自傷的、自虐的になる。短絡的な欲望に身をやつそうとする。たいていその欲望を受け入れている自分と、他者が作り上げる「自分」の分裂にどうしようもなくなるものであり、それを解消できないこともしばしばである。(これは『こゝろ』の「先生」がそう振る舞い、いわゆる「大学生」なる一群が高い頻度でそう振る舞い、「自分」なるものを見失って彷徨していることからもわかる)

 

けれど、「自分らしさ」、「ほんものの自分」を探すという自傷的な、困難な行為を我々はやめられない。そして、それを膨大な他者との関係において見いだそうとする不毛で不可能な行いを、我々はやめられない。不可能であるのは、そんなに「卓越した」人などこの世にはそう多くない(あるいは見方によってはゼロである)一方で、それをやめられないのは、他者をどのように捉えたとしても、「私」と私が意識する私は、私ただ一人だからである。

 

おおきな不安とわずかばかりの期待、それが今の「我々」を包んでいるとすれば、この苦しみの一端を残しておくこともあとから見たときのために肝要である。それが苦しいことであると書いてみて始めて、苦しみが外から見えるようになる。幾ばくかの安住は、それが何であったかという位相において、ようやく現われる。必ず希望的観測によって文章を締めなければならない、というアンチ=ニヒリズム的要請が今の私の「言葉」を統制していることも、ついでに記しておこう。

 

 

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