なぜブログを書くのか~このブログについて
私は思考し、自分の思考を伝達しようと意志する。するとただちに私の知性が技巧(art)をもって何らかの記号を用い、それを組み合わせ、構成し、分析する。こうして1つの表現、1つのイメージができあがる。それは、以降の私にとって、1つの思考の―すなわち非物質的事実の―肖像(portrait)となる物質的事実である。肖像は非物質的事実を私に思い出させ、この肖像を見るたびに私は自分の思考のことを考えるだろう。
―Jacot, Joseph., Enseignement universel. Droit et philosophie panéstique, Paris, 1838, 11-13
訳はジャック・ランシエール『無知な教師』,梶田裕・堀容子訳,法政大学出版局,94 を参考
このブログは、ある大学で教育学を学ぶ一人の学徒が、ただ思いつくことをとりとめもなく書き留めた、「雑記」である。ブログの文体はひどく散逸的で、非論理的、かつ専断的で多くの誤謬を含む。けれど、このブログを書くことは、私にとって多くの意味を持つものと思われる。
ブログに現われた表現は、その時々の私の思考の参照点―「肖像」―である。多くの至らなさを含み、多くの不正確さに目をつぶり、恥も外聞もなく書いてみる。書いてみることによって私の思考は整理され、相対化され、確認可能なものになる。後から、いくらかの知識を得た後に、その参照点に立ち返ることで、私は多くの至らなさに赤面する一方で、無知ゆえに洞察していたいくつかのことを思い出すことが出来る。あるいは私が「至らなかった」論理を確認することができる。
これだけの理由であれば、チラシの裏に書き溜めておくか、よくて非公開の場に留めておけば良い。しかし私はこれを公開している。それは2つの理由による。1つは他者による「まなざし」こそが思考の整理に役立つからである。「誰か他の人が私のこのとりとめもない文章を読んでいる」というまさにその事実こそが、私に、私の思考を整理した、私が既に知っていることをくどくどと確認するような、ひとまとまりの文章を書かせるのである。(ただ単に私のための「メモ書き」であれば、内容は当然もっと短くなる。大抵読んだ本の引用一文とかその程度で済む。けれどそれでは残らないものがあるのだ。) 2つは、ブログの記事が生むコミュニケーションを楽しみたいからである。「チラ裏」を公開することで、誰か―それは私の知っている人かも知れないし、SNS上の全く知らない人かもしれない―が、それを読み、何らかの意見/感想をしばしば言表してくれる。これは、極めて有意で得難い経験である。
私は自らの興味関心の赴くままにブログを書く。その時々で読んだ本に影響を受け、時勢に刺戟を受けてものを書く。私は、私がここで書いたことについて、責任を持つ気はない。だから、確認するまでもないが、読まれる方も自由に読み、あれこれ言っていただいて構わない。匿名が生む「自由」を楽しみたいからこそ、私はブログを書いているのである。
思考はある精神から他の精神へと言葉の翼に乗って飛ぶ。一つ一つの単語はただ一つの思考だけを運ぶことを意図して送り出されるのだが、話す者の知らぬ間に、そして彼の意に反するかのように、この言葉、この単語、この幼虫は、聞く者の意思によって豊穣なものとなる。
- ibid.
「民主主義」とは何か~アメリカ大統領選を受けて
ジョー・バイデンに当確が出た。結果的には、事前の世論調査で「わずかに有利」となっていた州を取りこぼさず、全体的に見れば完勝、といってよい選挙戦であった。
ところで、選挙戦の前後を問わず頻繁に争われた言葉に「民主主義」がある。特に革新勢力は、敗北すれば民主主義が死んだ、といい、あるいは選挙戦においては民主主義を取り戻す、としばしば標語を立てて運動を進めてきた。今回の選挙結果は、彼らに言わせれば、民主主義が取り戻されたのであり、民主主義国たるアメリカが帰ってきたのである。
Welcome back America! Congratulations to @JoeBiden and @KamalaHarris for their election! While we are about to celebrate the 5th anniversary of the Paris Agreement, this victory symbolizes our need to act together more than ever, in view of climate emergency. 🇺🇸#Election2020
— Anne Hidalgo (@Anne_Hidalgo) November 7, 2020
しかしながら、ものの辞書を引いてみると、「民主主義」(デモクラシー)なる単語はDemos(人民)+Kratia(支配・権力)の訳語として、一部の人々による支配ではなく、多数者による支配を意味する、と説明される。逆に言えば、それ以上のことは説明されない。単にこの原理から見れば、前回の大統領選において正式に勝利したドナルド・トランプは、民主主義の枠組みのなかで政治を行った民主的な元首であり、そこにいかなる謂れも受けないはずなのである。しかし、現実には、トランプは「民主主義の敵」としてしばしば批判されてきた。このことをどう考えればよいか。
無論、この問いに対する答えは単純である。すなわち、トランプの批判者が用いる「民主主義」という単語には明らかに「多数者の統治」以上の意味ー平等な機会、少数者への尊重、そしてこれらを内面化した生活様式ーが付与されているのである。しかし、こで重要なのは、トランプ、及び彼らの支持者もまた、「民主主義」を盾に、自己の支持者ー選挙戦に拠って立証された「多数者ーの感心に沿うような政策を推し進めてきた、という事実である。すなわち、両者の間で「民主主義」(デモクラシー)なるシニフィアン(音)が指すシニフィエ(対象)は分裂している。
ここで私は、どちらの民主主義観が正しい、などという胸焼けするような議論を展開する気はない。むしろ指摘したいのは、この両者の争いとは、結局の所「民主主義」なる単語の意味内容を巡る(ラクラウに敬意を表せば「空虚なシニフィアン」たる「民主主義」を巡る)ヘゲモニー闘争であった、という点である。選挙戦は、ただ単にどちらの候補を選好するか、という問題のみならず、「民主主義」をいかに把握するか、という点までもが視程に入れられている。
こうした見方を取る時重要なのは、結果的にいずれかが勝利したとしても「民主主義」なる語の意味内容(というヘゲモニー)は、暫定的に勝者の手に渡っている、というだけであって、永続的な一意のシニフィエが固定化されたわけではない、という点である。このことを取り違えると、勝者は、もう一方の意味(シニフィエ)を信じる敗者に対して、その感情の根源を把握しつつ、ヘゲモニーを拡大していく、という戦いを一向に行えなくなる。より具体的に言えば、この取り違えを起こすと、トランプ支持者は常に反・民主主義者としてレッテル貼りされ、理解の外に置かれ、選挙のたびに亡霊のように現れることになる。これでは、ヘゲモニー闘争は同じところを堂々巡りするだけで、前進が見込めない。正しさを手にしている革新が、正しい民主政治を敷いているから、正しい多数者が支持を固め、安定的に前進する、などという神話は過去一度も実現したことがない。いつも、この「正しさ」の神話のうらで包摂できなかった人びとに、「正しい政治」は足元をすくわれてきたのである。
ドナルド・トランプ当選の衝撃は、彼が敗北してもまだまだ続く。彼は、リベラルの「正しさ」が包摂できなかった「人民」の声を表示し、増幅し、拡大した。彼こそが、そして彼だけが、この機能を果たしえた、という事実をきちっと反省し、政治が進められなくてはならない。そしてその先に、「民主主義」という単語に賭けられた意味を、また点検していく必要がある。二次元的な弁証法的世界観は潰えて久しいが、私はもう少し「到来するもの」は信じてみたいのである。
「批判的思考」の勘違い
最近は何かと物々しい時代である。多くの人々が不安にかられ、まるでその不安を追認するかのように多くの出来事が立て続けに起こってきた。別に、この出来事それ自体について語りたいのではない。というか、その出来事についての情報は、ここに求めに来るべきではない。
私が今回の騒動でひしひしと感じているのは、いわゆる「情報リテラシー」というやつが、これまでにもまして試されている、という感覚である。やはり、世界中の人々の情報発信力の総体というのは凄まじいものがあり、日々、我々はこれまで経験したことがないほど、多くの情報の洪水にさらされている。様々な人が、様々な角度から物を言い、場合によっては他者を攻撃し、場合によっては他者と助け合っている。この情報の洪水から、いかにまっとうな情報を抜き取り、判断の材料とするか、多くの人々が試されている。
こうした中で、必要になるのが、情報リテラシーの中核として、しばしば言われてきたのが「批判的思考力」というやつであろう。この「批判的思考力」なるものが、今回の騒動では多くの場合勘違いされているように感じるのだ。すなわち、それは、「批判的思考」を、様々な情報に対して疑ってかかる態度と同一視するかのような姿勢が蔓延しているようにも思われるのだ。
今回は短く書きたいからサクサク行こう。確かに「批判的思考」の初歩は、様々なモノ=コトに対して、「それは本当か」と疑ってかかることから始まる。しかし、批判的思考はここで終わるものではない。以前にも書いたことがあるが、「批判する」(critic)とは、語源に立ち返ればギリシャ語のkrineinであり、その意とは判断する(judge)、異なるものを見分ける(distinguish)、区分けする(make distinctions)などに求められる。すなわち、批判するという様式は、単に疑うことにとどまらず、目の前のものが、他のものとどのように異なるか見分けたり、あるいは真(善・美)であるか、そうでないか判断したりすることにまで及んでいるのだ。
以上から明らかなように、我々が情報に対して、批判的思考を持って臨むとは、単にそれを疑ってかかることではない。1つの情報に織り込まれた多数の情報を区分けし、それぞれについて判断し、自らの思考の円環の中に位置づけ直す行為までを含んでいるのだ。
そしてまた、批判的思考が重要になるのは、それを常に自己の判断基準それ自体にも向け続けるところにある、という点にも留意する必要があるだろう。絶対神でもないかぎり、我々がすべての物事を間違いなく判断することはできない。だから、我々の判断には常に、過ちの可能性が含まれている。批判的思考を鍛え上げるために重要なことは、この可能性を常に反省的に探りつつ、またそれを最大限縮減しようと努力することにある。*1
以上から明らかなように、「情報リテラシー」に必要な「批判的思考力」とは、単に情報に対して「それは本当か」と疑ってかかることだけではない。ある情報が他のものとどのように異なるかを見分け、それがどの程度真であるかを判断し、またその判断基準それ自体をも批判的に研鑽すること、ここまで含めて批判的思考力である。ここに至らない「批判的思考」は、単に教祖の教えを盲信する狂信者の振る舞いを裏返したのみであるから、しばしば狂信者を広げ世相を扇動しようとする指導者に容易く利用される、ということを肝に銘じておくべきであろう。
再び死について~1年経って
これはあの日-1年前の今日-のあと、葬儀等を済ませた後、すぐ書いていて、どうしようかためておいたものである。月日の流れというのは、あらゆる悲しみの前にあまりにも偉大なもので、今では色々と物語を作りながら、なんとなしに考えることができるようになった。それは、たしかに忌むべきことなのかもしれないし、そうでないかもしれない。
今でも時々怖くなる。私はどのように目の前の、この親しい人たちと別れることになるのか、と。私が先か、相手が先か、それはわからないけれど。
ともかく、私は生きているし、私の目の前の親しい人たちも生きている。この事実だけが重要なのだ、と思っている。
==以下記事==
こんな記事をもう書きたくはないのだけど、残しておかねば、という気持ちに駆られる。この複雑な、悔しさと悲しみと労りと、諸々がないまぜになった感情を。ただそういうことがあった、とするだけでは自分の整理はつきそうにない。
桜がこぼれんばかりに咲き誇る、晴れた日の午後だった。一通の短いメール。もう見たくないと常々思っている類のメールがまた届いてしまった。脚色はない。事実だけ。広島の祖母が倒れた、と。メールに書いてあるわずかな状況から考えても、まず助からないだろうと直観した。友人と話していたので少し席を外し、第一報を知らせてくれた母親にとりあえず電話をかけていくつか確認した。過去の経験からしても、現場に飛んでいってもどうにもならないことだけはわかったから、とりあえず自宅に帰ることにした。
帰路、死亡が確認されたというメールを受け取った。やはり、どうにもならなかった。大病1つしなかった祖母の急逝、どうしてこうも続くのかと涙をこらえるのに必死だった。
翌朝、広島に向かった。急逝してしまったのなら仕方ない。やることが山ほどある。不幸なことに去年やったから、手慣れたものである。葬儀屋とやり取りをしながら段取りを決め、会計表を作り、参列者の名簿を作る。なにかやることがあるほうが、悲しみも紛れていいだろう。そう思っていた。
広島についてちょっとした後、これまでの人生で一番見たくなかったものを見つけた。タイトルでわかるような死に方をすることを告げる一文。「いろいろ考えたけれどこうすることにしました」、と。通販やらメールやらをするために祖母が使っていたタブレットに書き留めてあった。現場検証に来た警察も、第一発見者の祖父も、当日中に駆けつけた母も叔父も見つけていなかったらしい。死亡状況に多少不可解な点はあったものの、これといって事件性を示す証拠もなかったから病死で処理されていた。どこで方法を読んだのか知らないけれど、それはそれはきれいな死に方だったのだ。どこも汚さず、体も傷つけず、それを見つけなかったら、わからなかったほどに。
ここから、どう言葉を継ごうか。いささかまとまりを欠く。それを見つけた後、きれいにしてもらった祖母の顔を見ながら考え続けていた。彼女は何を思っていたのか、私はどうすればよいのか、と。悔しかったのかもしれない。気づいてあげられなかったことに。けれど思い返してみれば自分がどうこうできる話ではなかった。ずっと広島にいてあげられるわけでもない。1年に2回ほど帰ってたくさん話をして、たまに電話をかけてやる以上のことは、おそらくできなかった。そういう思いに気づいていたとしても、多分どうにもできなかっただろう。
こう思ったあとに、無責任に、「おつかれさま」という気持ちも湧いてきた。子ども3人を育て上げ、老後は孫の子育てを手伝い続け、それが終わってみれば、家のことはほとんど何もせず、最近は病気をして障害者手帳もちになっていた祖父と2人で、衰えていく体にムチを打ちながら生き続けてきた人生。最後にきれいに逝けたことだけがせめてもの救いかもしれない、と思った。
けれど、こんな美談にしたてて、事実を飲み下そうとしている自分にもだんだん腹が立ってくる。自分で生きることをやめる、という途方もない選択を簡単に解消してしまうことはどうしてもできない。「自分から、応答することを永遠にやめる」という、冷たく静態的な事実に応答するためには、「問題解決」(とそのための原因分析)や「同情」という態度を取るだけではどうにも足りない。「語れない」ではなく「語らない」事実を前に、応答可能な《私》は、解決はない無限の責任を背負わされたような気がした。「お前はこの事実をどう考えるのだ」、という問いに対する応答責任を。
曾祖父母の多くがそうだったせいもあって、死というのはゆっくりくるものだと思っていた。だんだん弱っていって、辛いことに耐えながら、やがて近親の顔もわからなくなって死んでいく、というようなものだと。こういう安直な考え方は去年いろいろあったことを通じて変わりつつあったのは確かだ。死は突然来ることもある。どうしようもない事実として、それが訪れることもあるのだと。
けれど、自分でタイミングを選べるとは、実は露とも想像していなかった。もちろんそういう事実があるのはよく知っている。けれど、それらは全部、遠いどこかの話だった。そういうどこかの話は、大抵そうなる理由付けを伴っていて、孤独とか過労とかいじめとか、しかるべき理由を伴った悲劇だと思っていた。
だから、今回、こういう事実については頭を抱えてしまう。もちろん、理由をこさえて物語を作って見せることはできる。警察にも物語を作るように求められた。かくかくしかじかという事実が心労で、それが動機になった、というような悲劇を作るように。けれど、その悲劇=物語は、自分が実際に見て、生きてきた経験と照らし合わせると、全部嘘っぱちにみえてくる。というか、それ認めてしまうと、自分が今まで生きてきた、祖父母とに関わる色々な生活を否定してしまうように思う。そして、それをしてしまうことは、取りも直さず彼女が自分でケリを付けた、当の人生それ自体を否定してしまうことのようにも思ってしまう。少なくとも、自分の前で本当に楽しそうに、いろいろなことをしてくれた彼女のそれを、悲劇でまとめたくない。悲劇だと思うことは、とりあえず、残された私には厳しすぎる。
聞き上手で世話焼きで、本当にたくさん、たくさん、感謝してもしきれないくらい、私をかわいがってくれた人だった。広島に行くといつも、その時の調子でできる最高のもてなしをしてくれて、自分が楽しめるようにたくさん気を使ってくれた。そして、自分がそのことを感謝すると、「ええのよ」と言いつつ笑うのだった。
ただ、思いつめるところがあり、決心したら曲げない頑固なところもある人だった。自分の諸々にイライラし、それを解放する術を知らない人だった。特に年をとってからは、それが募るばかりだったのだろう。体は言うことを効かない、物忘れは激しくなる、季節の変わり目で毎回寝込む、この先、そんなイライラする状況は改善することはない。周囲に目を向けてもそう。好きなこともできなくなる、祖父と2人、特に目新しいこともない。どう見ても、彼女のいらだちが解消されることはなかった。ケリをつけられるうちに、ケリをつけてしまおう、そう思ったのかもしれない。
答えなどもちろんない。答えなどないから、こんな当たり障りのない物語を書いてはいけないのかもしれない。あまり考えたくはないけど、自分の衰えよりは、「誰か」の原因が大きかったのかもしれない。いろいろなことが頭をもたげる。受け入れがたい、けれど可能性のある物語もいくつかある。この稿の中で繰り返してきたとおり、これはどうしようもない問題なのだ。
ハンナ・アーレントが好んで引用した言葉に、アイザック・ディネーセンの次のフレーズがある。
すべての悲しみは、それを物語に変えるか、あるいはそれについて物語ることによって耐えられる
All sorrows can be borne if you put them into a story or tell a story about them.- Isak Dinesen
意地悪く逆を取れば、物語化できない事実は、なるほど耐えられない。しかし、耐えられないからこそ、意味があるのかもしれない。「耐える」ことを超えて受苦し続けること、それが私が在りたいと思っている現状の態度である。
2019年を振り返って~ブログを書けなくなった話
何やらバタバタしているうちに春が終わり、夏が過ぎ去り、すっかり肌寒くなってしまった。クリスマスも終わったというのに、まだイチョウの葉があちこちで舞っているのには季節感と景観のミスマッチを感じざるを得ないが、ともかく、2019年が終わろうとしている、というのは事実である。
今年は何事かを書こう書こうと思いつつ、ついぞ書き上げられないまま長い時間が過ぎてしまった。もちろん思うところがなかったわけではない。大学院に進学したのもあるが、教育系のニュースには、入試問題を始めとしてそれなりにアンテナは張っていたし、様々な著作を読み続けることもやっていた。
しかし、一向に書けない。むろん実名ではいくつかアウトプットを出している。ただし、そこで何か大きな問題を論じるわけではない。細かく、書かれたものに準拠して、「アカデミック」に誂えて書くのがせいぜいである。私なりの問題意識もある。しかし、それをまとめようと思うと、どうにもスッキリまとまらない。たまにブログでも書くかと筆をとるが、仕上げられない。そういう状況が続いている。
書けないことの原因は、おそらく3つある。一つは、このブログの性格上の問題であり、一つはもう少し大きく、何かを書くことにいつも付きまとう問題であり、最後にくるのは、至極個人的な問題である。
1つ目は至極単純である。それは、私がこのブログを何らかのアカデミックなブログにはしたくない、という個人的思いである。私はこのブログを書くために何らかの下調べをしたくはない。あくまで、その時思ったことを、その時思ったように書き残しておきたいのだ。しかし、アカデミックな視座に慣れ親しんでしまって以降、なかなかそれ以外の文体で物を書けなくなってきた。もちろん、何か頭に沸き起こったことは何らかの記号でつなぎとめておかないと消えてしまう。そうは思いつつも、そこそこはまとまったものを出したい、とも思う。このギャップの中でまとまりのつかない何かばかりが積み上がっていた。
2つ目は、やはりこのブログでも何度か言及している言葉-「実がないだけ雄弁」-の裏返しである。私にもさすがに少しは実がついてきた。様々な問題系の領野が広く、相互に複雑に関連していることは自ずから理解できるようになってきたし、それらの中でポジションをとることの困難さもまた身にしみてわかってきた。こうした中で書きうることは、細かく研究を行った上で、その成果をして暗に雄弁に語らしむることとなってきている。こうなってくると、このブログに書けることは極めて少なくなる。前述したように、私はこのブログを、アカデミックブログにはしたくないのだ。ここにジレンマが生じることは不思議なことではない。
最後に、至極個人的な問題として、わずかながら研究書を流し読む中で、感動的(感傷的)な驚きを得ることが少なくなってきた。この部分はおそらく、2つ目の記述とは対照的に、私がいまだ実がないことを示しているのだろうが、著されたものを読むとき、それが位置づいているポジションがなんとなく見え透いてしまい、新鮮な驚きのようなものが少なくなってきてしまった。例えば、ちょっと前までの私であれば、〈私〉なる存在にある根源的な表象不可能性を理論化し、それにある種の可能性を見ようとする理論は、日頃私が抱いていた問題意識を説明してくれるようで、極めて新鮮なものであった。あるいは、もう少し前の私であれば、いわゆる近代教育批判の諸言説を読むことは、私の教育体験が相対化されていくような、得も言われぬ愉快さを感じたものである。しかし、だんだんと、この新鮮さ、愉快さを感じることが減ってきたのである。もちろん、専門であれば、専門らしい面白さを感じることが大いにある。しかし、このブログで書いてきたような、(教育)哲学とか社会学が提示する知見に対して、あまり面白さを感じないのだ。少なくとも、このブログで発信するほどの面白さを感じることは少なくなった、という方が適切かもしれない。
これは、やや勇み足的にいえば、勉強から研究への岐路に在ることによるのかもしれない。勉強であれば、急ぎ足で新しいことが次々見てくるが、研究は遅々として進まず、往々にして進捗なるものは存在しない。私は(教育)哲学を専門にする気は今の所毛頭ないが、そういう研究的な読み方をしたくない/してしまうところのギャップに、なんとなく囚われているようにも思われる。
以上、つらつらと言い訳を書いてきた。しかし、最も大きく、実際的なのは、ブログをまとめるだけの時間を、これまでブログを書いてきたドトールなりサンマルクなりで過ごすことが減ったことにあるだろう。指導教官の年齢的問題で早稲田から日本のどこかへ大学を移ったので、割といつでも出入りできる机を手に入れることができた。これであれば、夜、大学からの帰路で、どこかのカフェで息抜きする必要もない。一方、大学にいる間には、とはいえ何事か研究めいたことをしているのでブログを書こうとも思わない。そうこうするうちに、書く時間がなくなり、まとめきれなくなった、という至極実際的な問題である。
以上を書いてきたことから逆説的に分かる通り、この一年は何らか研究めいたものをこなしていたら過ぎ去ってしまった。確かに1年の前半-卒業まで-は様々思うことも多く、また書き残そうという気概もあった。しかし、ややもすれば学生生活のような面白みもなく、淡々と過ごすことになる大学院ではそうした抑揚も減ってきた。もう少し恥を忍びつつ、ブログを書いたほうが良かったかもしれない、とわずかばかり反省している。淡々とした日々の中にある抑揚を生き生きと生きることーこれが、教育学が形象しようとする「生活」なるものであるとすれば、「生活」を言おうとする私自身も、また一人の生活者となるべきであるのだろう。ややわかりにくいまとめとなってしまったが、これをもって、今年のささやかなまとめとしたい。
大学生活を振り返って
1月に最後の授業が終わって以来、この記事を書こうと思っては筆を折る、ということを繰り返してきた。そうこうしているうちに梅の季節はとうに過ぎ去り、桜が咲き、卒業式まで終えてしまった。それほどに「大学生活を振り返って」というテーマで何事かまとまりのついた文章を書くことは困難だった。けれど、何やらこういう記事を書いておかねばならない気もする。4年間過ごした早稲田という場所で、様々な時を共有してきた友人たちに感謝の思いを伝えるためにも、あるいはそうした思いを忘れないためにも。
果たして「私の大学生活」なるものがあったかどうか、それはやや判然としない。通り一遍のことはやったと思う。サークル活動に勤しみ、そこそこ勉強して単位を稼いだ。酒で失敗もしたし、恋愛もした。思い返せば、そこには様々なパーソナルな思い出が詰まっているような気もするが、それはどこにでもある、ありきたりな「誰か」の大学生活でもあったような気もする。逆に、そのように「ありきたり」であれたことに心を落ち着ける自分もいる。
卒業にあたって、4年前の自分と今の自分が話したらどう感じるだろうかとふと考えることがある。「自分」はこの4年間で何が変わったのだろうか、変わってしまったのだろうか、あるいは変わらなかったのだろうか、と。
確かに思い返せば、何やら大きく変わった/変わってしまったような気もする。物事の見方、考え方は当然ずいぶん変わったし、人との接し方も変わったように思う。ストレスを酒で飲み下すことも覚えたし、欲しいものがあったら自分でバイトして、高校時代からは考えられないような高い物品を買うことも覚えた。こうした有り様は高校時代の自分からは想像もつかないものである、というわけではないけれど、相応に変わった自分を感じざるをえない。
一方、どうにも変わっていない自分もまた存在しているように思う。高校時代からの友人は頷いてくれるだろうが、この文体や話し方など高校時代からほとんど変化していないし、顔立ちや髪型だってほとんど変わっていない(と思う)。少し本を読み、いろいろな体験をして語彙やらなにやらが増えているけれど、たかがその程度の変化な気もするのだ。
このように考えてみると、「私の大学生活」なるものはますますわからなくなってくる。私の4年間とは何だったのだろうか、それを「振り返る」とは何なのだろうか、と。ここに、この記事を書きあぐねていた一番の理由がある。サークルのイベントでも学業上のなにがしかについてでも、私の大学生活のうちに起こった「出来事」を列挙することはできるけれど、それが「私の大学生活」なる「物語」の振り返りに足るのかは判然としなかったし、そもそも「私の大学生活」なる「物語」をおおっぴらに語る臭さに私自身が耐えかねていたのだ。早稲田という土地で、多くの新しくできた友人たちに囲まれながら為した物事を、単なる自己変容(発達といってもいい)の成功物語としてまとめることは、私にはどうにも抵抗がある。私の大学生活はそんな短絡的に物語化できるほどのまとまりを持たない、雑然としたものであったような気がするのだ。
恐らく、「私の大学生活」なるものを振り返ったときに、上で書いてきたようなことを感じる人は多いだろう。出来事を列挙するでもなく、あるいは共に過ごした友人の名前を出すでもなく、「私」の問題として雑然と「振り返り」を行おうとすると、そこには雑然と整理されていない「4年間」が顔を覗かせる。この「4年間」をどう扱うか、少なくともこのテーマで書き続けてきた私は苦慮し続けている。
ただ何にせよ4月になる前にこの記事を公開してしまいたい。そうしないと、大学の学部生活に一応でさえケリがつかない気がする。だから強引にまとめよう。少なくともここまで書いてきて改めて気づいたことは、「私」なるもの、あるいは「私の生活」なるものは何がしかの物語ではないという、思い返してみれば至極単純な事実である。「私」も「私の生活」も、出来事の羅列やステータス、人物の羅列でもって物語化して語り尽くせるほど、まとまりをもっているわけではない。それらは二度と繰り替えなさない物事として、雑然とそこにあったのだと思う。教室や図書館、サークルでいろいろな人達と語らいながら在った、あの一回きりの、かけがえのない時間はすべて、明確には位置づけられないけれど、私を創る、私にとっての「なにか」であったのだ。
思い返してみれば恥の多い大学生活であった。このブログの昔の記事を読むだけでもその未熟さと傲慢さには辟易するばかりだが、そうした恥さらし以外にも、平生色々な失敗をして、沢山の人に迷惑をかけた。大学生活なぞそんなものでいいのだと開き直ってみたりもしたけれど、やはり思い返すと1人赤面するしかない。けれど今、あえて列挙を避けた様々な、雑然とした出来事を振り返ってみれば、一つだけ言えることがある。それは、「私の大学生活」はよいものであった、ということである。もしかしたら他の道もあったかもしれないけれど、私がいろいろな人達と過ごしてきた、この「大学生活」なるものは間違いなくよいものであった。だから、ネットの片隅にわずかばかり感謝の念を書き留めておこう。これまでありがとうございました。これからも、どうぞよろしく。
最後に、ここまで読んでくれた後輩が何人いるかわからないけれど、まだ大学生活をすこし残した君達に少しばかりありきたりなアドバイスを2つ、書いておこう。
1つ目に、きちんと在ったことを残そうとすること。誰かと在った物事は本当に、もう二度とやってこない。その場では安易にやり直せると思うかもしれないけれど、残念ながらそんなことはめったにない。だから残しておこう。文章でも、写真でも、動画でもなんでもいい。どんなメディアを使っても、それらからはどことなく嘘っぱちな香りが漂ってくるけれど、それでも残さなければ、もう消えてしまう。嘘でいい。どうせ在ったことは雑然としているのだ。
2つ目に、何かをやろうとしてみること。誰かと飲みに行きたいと思っても、どこかに行きたいと思っても、なにかに取り組みたいと思っても、そこで立ち止まっていてはいつまでたっても何も起きない。やろうと思ったときにやってみること、これがきっと大学生活をちょっといいものにしてくれる。もちろん迷うことも立ち止まることもある。嫌なことも辛いこともある。だけど、そこでちょっと踏ん切りをつけてみよう。きっと何かが動くはず。
以上、私の大学生活らしい、ぐちゃぐちゃとした、振り返りらしい振り返りであった。
共に生きることについて
誰かと共に生きる、ということがこれほどまでに大きな問題となった時代は稀であるかもしれない。日々、「私」とは異なる予想を超えた価値観、生き方を持った「誰か」が提起され、彼らとどう共に生きるかが問われ続けている。こうした問題はしばしば、「共生の倫理」を巡る問題として理解される。
他者とどう生きるか-この問いが、明確に問題として意識されるのはしばしば、誰かと共に生きさせられる(生きざるをえない)ことによって、深刻なダメージを受けた人びとの間においてである。虐待にせよ、いじめにせよ、ハラスメントにせよ、DVにせよ、日常生活で生まれる様々などうしようもない問題にせよ、共生を強制された他者から受ける深刻なダメージこそが、「共生の倫理」の問題系を駆動させる。しかし、こうした駆動の契機こそが、共生の倫理に関する議論における根本的な矛盾をしばしば生み出している。その矛盾とは、「他者と共に生きる」ことを要請する共生の倫理が、ある考え方を持った「他者と共に生きたくない」という実際生活上の要請によって問題化されている、という矛盾である。やや乱暴に言い換えれば、包摂の倫理の始点が、誰かを倫理に反する悪として排除することから始まっているのである。
この矛盾はしばしば、共生の倫理の思考を、多分に説得力を持ったかに見える、誤りの方向へ引っ張っていってしまう。矛盾はしばしば、共生の倫理の問いを「他者と(私は)いかに生きるべきか」から「どのような他者と生きるべきか」へと転化させてしまう。そして、後者の立場から構築された「倫理」は、否定できない「公準」としての振る舞いを見せ始める。すなわち、その「倫理」に従うものが、共に生きるに値する「我々」であり、「倫理」に従わないものは、共に生きるに値しない「他人」である、というように我々/他人を切り分ける疑いえない公準として、「倫理」が機能してしまうようになる。更に、こうした態度は進んで、共生の倫理に啓蒙的な語感を付与する。すなわち、疑いえない公準としての「倫理」を持つものは、持たざるものの上位に立って、それを「啓蒙する」立場を自認するようになる。ここに至って、共生の倫理は、「共生」の思想に反して、孤立した、ある人びとの内輪ルールへと堕していく。
ところで、こうした展開について、私はそれが「説得力」を持っていると評した。なぜか。それは、こうした論理展開自体が、傷ついた弱い人びとの実体験から生成される、無理もない展開だからである。現に、他者によって「私」の内面的な部分を疎外され傷つけられた人びとにとって、そうした加害者と共に生きないこと、自らのような被害を繰り返させないような倫理を構築し、それを啓蒙しようとするのは、当然の防衛策であり、まっとうな「倫理」意識だからである。しかし、大きな問題は、こうした「説得力」が、上記のような論理的道程を辿ってしまうことであり、それを批判しづらい情勢を作り出してしまうことである。
私論によれば、共生の倫理とは、以上のような被害/加害から啓蒙/野蛮の構造へと転化していく二元論的対立を超克したところに構想されなくてはならない問題である。なぜなら、「共に生きる」とは第一義的に、こうした二元論を区切る「/」をいかに放棄するかを突き詰める思考だからである。
ただし、共生の倫理をこのように定立したからといって、共生の倫理にはもう一つの、陥りがちな誤った道筋があることにも注意しなくてはならない。それは、二元論を区切る「/」を放棄する方途として「みんなちがってみんないい」を採用することである。なぜなら、「みんなちがってみんないい」を唱えることが、根本的に、「みんなちがう」ということによって駆動される「共生の倫理」の問いを骨抜きにしてしまうからである。
「みんなちがってみんないい」はしばしば、大きな暴力へと転化する。それは、「みんな違うが、それはすべて良いことではない」という言説に対して振るわれる暴力である。「みんなちがって、みんないい」は、しばしば、ある特定の「善い」生き方を志向しようとすること-「倫理」的に生きようとすること-全てに対する否定として働く。なぜなら、倫理的に生きるとはまさに、「みんな違うが、目指されるべき正義がある」ことを承認し、そこに向かって生きようとする態度だからである。「みんなちがって、みんないい」の最大の問題点は、倫理的態度それ自体を、「みんなちがって、みんないい」という「倫理」に反するものとして排除の対象としてしまうことにある。
さて、以上のように考えてくると、共生の倫理は、極めて困難な足場の上に立つ倫理であるように思われる。なぜなら、それは、真理を公準とする倫理が持つ暴力性にも抗しながら、一方で倫理の持つ切り分けをすべて否定し、フラットに承認を要求する暴力性にも抗しなくてはならないからである。共生の倫理は、この意味で、強くポストモダニズム的立ち位置に存在する倫理意識である。すなわち、固定的な真理なるものの暴力性と不可能性を提起する一方で、今ここにはない真理(正義)のもつ価値を承認し、それを希求し続ける、という両義的にも見える態度を保持し続けなくてはならないのである。ジャーゴンをあえて用いれば、「脱構築」は弁証法が作り出した価値の三次元的上昇の構造をも否定した先でなされる二次元平面上の無邪気な「戯れ」では断じてなくて、「戯れ」を繰り返すことで「世界精神」という安住の地をも脱化し続け、3次元的な「上」へと止揚し続けることを唱えた思想的決意なのであり、この「戯れ」によって希求され続けるものこそが、今ここにはない「共生の倫理」という名の正義である。
しかし、こう考えることにもまた、1つの大きな問題が含まれる。それは、このように「共生の倫理」をポストモダニズム的潮流に位置付けたところで、具体的な解決が一切達成されていないことに起因する。すなわち、こうした「位置づけ直し」自体は、価値の実現という問題に対して何ら寄与しない、1つの無邪気な「戯れ」に堕してしまうのだ。共生の倫理は今ここにはない、と論じたところで、今、共に生きることについて苦しみ、傷ついている人びと、共生の倫理を希求し続けている人を実際的に救済する「倫理」は一切導かれない。それどころか、そうした救済を求める人たちに対して、「救いはない」ということを突きつけているにすぎない。
では、共生の倫理とは、少なくとも何であるべきなのだろうか。このあたりから私の思考は心もとなくなってくる。頭でっかちにできた思考が、「実践」という問題の前に躊躇してしまう。結局、実践を問われると、安易な「承認」の試みへと傾倒してしまうのだ。上記で批判してきた、「みんなちがって、みんないい」という態度をとることが、実践上の次善策ではないか、とさえ思えてくる。
今の私には、1つの理論的隘路を抜ける「信念」を立てておくことくらいしかできない。それは、「共生」を巡って、ジュディス・バトラーがハンナ・アーレントの『イエルサレムのアイヒマン』を手がかりに導いている規範的態度である。バトラーはいう。
私たちが共に生きようと努力するのは、人類全体に対する愛からでも、平和への純粋な願いからでもない。私たちが共に生きるのは選択の余地がないからである。……私たちは、選択の余地なき社会的世界の究極的価値を肯定するために闘争することを義務付けられている。【ここで言う】肯定とは必ずしも選択することではなく、闘争とは、生の平等的価値へと宿命的に取り組むために自由を行使する際に、認知され、感知されるものである。……「そこ」で起きていることが「ここ」でも起きているということ、また「ここ」が既に他のどこかでもあり、かつこうした事態は必然的にそうである、と私たちが理解するときにのみ、私たちは、「倫理」と今なお呼びうるものの広まり【transport】と強制力【constraint】を知るという形で、困難で変化するグローバルな結び付きを捉える可能性を得るのである。
-Butler, Judith(2015),Notes toward a performance theory of Assembly, Harvard College:122
バトラーが語るように、私達はどのように否定しようが共に生きているのであり、共に生きさせられている。だからこそ、私達は共に生きるこの世界を「肯定」するために、共生の倫理に向けて闘争し続けなくてはならないのだ。バトラーの議論の最大の威力は、この「共に生きさせられる」という意識を排除ではなく、共生の倫理に向けた闘争へと向けかえていること、すなわち共に生きているからこそ、「私ではない他者」、「私達ではない他者」を、「私(達)」という〈同〉に還元することのない形で把握する義務を析出している点にある。「共に生きざるを得ない」という事実が、国境、人種、距離、時差といった「私達」と「彼ら」を区切る線を廃し、「世界」のうちにおいて共に生きる存在、というグローバルな視点をもたらすのである。
ただし、バトラーの議論は「信念」の域を出ていないことにも眼を配っておく必要があるだろう。なぜなら、バトラーの議論が定立する、「共に生きさせられる」ことによって呼びかけられる「義務」とは、レヴィナス譲りの形而上学的な議論から析出されたものであって、それが全ての人にたちどころに承認される「真理」ではないし、そうであるべきでもないからである。むしろ、理解すべきなのは、バトラーのこの「信念」が共生の倫理の隘路をくぐり抜ける、戦略的な有効性を持っている、という点にあり、かつそれを「信念」として批判的に再構築し続けようとする我々の姿勢の重要性である。
要は最後の言葉を引きたいがために長々と議論を続けてきたわけであるが、備忘録としてのこの分量もそれほど無意味なものではあるまい、と自己弁護して、この雑文を終えたい。