ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

なぜブログを書くのか~このブログについて

私は思考し、自分の思考を伝達しようと意志する。するとただちに私の知性が技巧(art)をもって何らかの記号を用い、それを組み合わせ、構成し、分析する。こうして1つの表現、1つのイメージができあがる。それは、以降の私にとって、1つの思考の―すなわち非物質的事実の―肖像(portrait)となる物質的事実である。肖像は非物質的事実を私に思い出させ、この肖像を見るたびに私は自分の思考のことを考えるだろう。 

―Jacot, Joseph., Enseignement universel. Droit et philosophie panéstique, Paris, 1838, 11-13
    訳はジャック・ランシエール『無知な教師』,梶田裕・堀容子訳,法政大学出版局,94 を参考

 

このブログは、ある大学で教育学を学ぶ一人の学徒が、ただ思いつくことをとりとめもなく書き留めた、「雑記」である。ブログの文体はひどく散逸的で、非論理的、かつ専断的で多くの誤謬を含む。けれど、このブログを書くことは、私にとって多くの意味を持つものと思われる。

 

ブログに現われた表現は、その時々の私の思考の参照点―「肖像」―である。多くの至らなさを含み、多くの不正確さに目をつぶり、恥も外聞もなく書いてみる。書いてみることによって私の思考は整理され、相対化され、確認可能なものになる。後から、いくらかの知識を得た後に、その参照点に立ち返ることで、私は多くの至らなさに赤面する一方で、無知ゆえに洞察していたいくつかのことを思い出すことが出来る。あるいは私が「至らなかった」論理を確認することができる。

 

これだけの理由であれば、チラシの裏に書き溜めておくか、よくて非公開の場に留めておけば良い。しかし私はこれを公開している。それは2つの理由による。1つは他者による「まなざし」こそが思考の整理に役立つからである。「誰か他の人が私のこのとりとめもない文章を読んでいる」というまさにその事実こそが、私に、私の思考を整理した、私が既に知っていることをくどくどと確認するような、ひとまとまりの文章を書かせるのである。(ただ単に私のための「メモ書き」であれば、内容は当然もっと短くなる。大抵読んだ本の引用一文とかその程度で済む。けれどそれでは残らないものがあるのだ。) 2つは、ブログの記事が生むコミュニケーションを楽しみたいからである。「チラ裏」を公開することで、誰か―それは私の知っている人かも知れないし、SNS上の全く知らない人かもしれない―が、それを読み、何らかの意見/感想をしばしば言表してくれる。これは、極めて有意で得難い経験である。

 

私は自らの興味関心の赴くままにブログを書く。その時々で読んだ本に影響を受け、時勢に刺戟を受けてものを書く。私は、私がここで書いたことについて、責任を持つ気はない。だから、確認するまでもないが、読まれる方も自由に読み、あれこれ言っていただいて構わない。匿名が生む「自由」を楽しみたいからこそ、私はブログを書いているのである。

 

思考はある精神から他の精神へと言葉の翼に乗って飛ぶ。一つ一つの単語はただ一つの思考だけを運ぶことを意図して送り出されるのだが、話す者の知らぬ間に、そして彼の意に反するかのように、この言葉、この単語、この幼虫は、聞く者の意思によって豊穣なものとなる。

- ibid.

社会問題の「教育化」について

私の見聞する限り、あまり知られていないタームに「教育化」educationalizationというものがある。ターム自体は聞き慣れないかもしれないが、指している意味は極めて明瞭である。すなわち、社会問題の解決を教育に託すこと、教育の問題にすげ替えることを「教育化」と呼ぶ。

 

「教育化」は、古今東西うんざりするほどたくさん行われてきたし、昨今の情勢はますますそうした傾向にあるように思われる。例えば、グローバル化だから英語教育だ、IT化だからプログラミング教育だ、18歳選挙権だから主権者教育だ、18歳成人だから消費者教育だ、というように。もちろん、これ以外にも「多文化共生」の教育、インクルーシブ教育などもこうした「教育化」の論理として跡づけることができるかもしれない。困難な問題の解決を教育を通じて未来の世代へ先送りすること、それが「教育化」の1つの典型的な論理である。

 

しかし、「教育化」が、「よりよい未来」を向いているならばまだ話はわかる。けれど、しばしば「教育化」の誤謬とも言うべき論理が耳につく。「ゆとりだからどうだ」とか「学校教育が学力保障をしていないから日本の国力がどうだ」とか、そういうたぐいの言説である。もちろん、何がしかの相関はあるかもしれない。けれど教育だけがその問題の全てではないし、むしろ、もっと別の論理を棚にあげた議論であるようにしか思えないこともしばしばである。こうした議論に通底するのは、何か、自分が見つけた「失敗」、もっと大きく言えば「自分の」失敗を教育のせいー他人のせいーにして安心したい/解決したように見せたい、という心理である。こうした議論は基本的に生産性がない。生産性がないがあまりにも日常的に行われている。なんでもかんでも「教育改革」したいどっかの国の中央政府がその最たる例である。

 

 

ずいぶん「教育化」の論法について批判的に言を進めてしまったが、「教育化」それ自体が全く正しくない論理か、というとそういうわけでもない。むしろ、社会問題を「教育化」して考えることは、よりよい明日を見据え、子どもたちの今と向き合おうとする真摯な思考態度を引き起こしうる。少なくとも、社会問題を真摯に「教育」の問題として取り上げなおそうとするのであれば、その思考の道程は困難ではあっても極めて有益で、かつ必要なものになるだろう。そして、確かに、社会問題の一端として教育が大きな課題である場合も多いのだ。この部分を正しく切り分けてあげるかぎりにおいて、「教育化」は必須の思考態度である。

 

ところで、現場教員の話を聞いていると、10中8,9、この「教育化」への感情的違和感を口にする。最も単純化していってしまえば「全部俺たちに押し付けやがって」という教員側の感情的反発がそれにあたる。ただし、誠実な教員というものは、何も教育化を全否定するわけではない。可能な範囲から社会の問題を引き受け、それを教育化して考え直し、日々実践につなげようと努力している。私自身の戒めであるが、我々に必要な態度というのは、そういう教員の姿勢に対して、大上段から「ぼくのかんがえたせいぎ」論を振りかぶってやっつけて自己満足しない、というものであろう。

 

少し話がそれた。ただ言いたいことがそれたわけではない。それは、「教育化」に必要な切り分けの話である。すべての「問題」は教育化可能であるように思われるが、教育化以前に一度立ち止まる必要がある。それは本当に教育「だけ」の問題だろうか。それは、教育に丸投げしただけでどうこうできる話なのだろうか。教育化するまえに、今の私たちが変わらねばならないのではないか。そう自問して見るだけで教育に関する議論はずいぶんすっきりする。しばしば忘れがちな論理であるので、備忘録的に記しておく次第である。

平成最後の夏の甲子園に思うこと

力なく上がった飛球がライトのグラブに収まり、夏の甲子園が幕を閉じた。「平成最後」「第100回」という2つの節目を持った大会は、甲子園らしさと平成らしさが交錯した大会であったように思われる。

 

甲子園とそこで生まれた物語について詩的な言葉を弄するのはやめておこう。物語に対する素直な感動を書き綴ることが本稿の目的ではない。むしろその逆、我ながら興ざめにも思えるが、幾分大きな視点に立った論を講じてみようというのが本稿の目的である。「平成最後」で「第100回」の甲子園が、素直な感動の一方で私が感じた、もう一つの読後感である。

 

今回の甲子園も、例年同様たくさんの物語に彩られた大会であった。そのうちの一握りさえも私は読めていないわけだけれど、特にフォーカスされていたのはやはり金足農業のエース、吉田くんの物語であろう。彼は物語の主人公として、背負いすぎるほど様々な属性を背負っていた。決して「強豪」とは呼べない公立の農業高校のエースとして、未だ東北にもたらされたことのない真紅の優勝旗を求めて、並み居る強豪校、強打者を抑えていく姿は観るもの多くの心を打った。彼のこうした「主人公像」は、伝統的な意味で「甲子園らしさ」であって、決勝で力尽きたとは言え、彼の物語は甲子園という歴=史に、刻まれていくことだろう。それは、日本人が数多の成功体験の中に読み込んできた「ジャパニーズ・ドリーム」の一端でもあった。

 

ただ、彼の物語をただ美談としてのみ読み込み称揚するような雰囲気が、全体的であるかと言われると首をかしげざるを得ない。ある意味「平成」という時代を経て徐々に培われてきた、モーレツ批判=「ブラック批判」的眼差しがそこには注がれていたのである。こうした視線は彼が連投を続けるたびに、そして今年の異常な酷暑が取り沙汰されるたびに私の中で否応なく存在感を増していった。こうした視線は、甲子園に取り組む球児たちの多くにとっては興ざめに感じられるだろうし、それを楽しもうとする私を含めた多勢にとって邪魔なものでしかなかった。けれど、私の中にある「平成らしさ」はそれを捨て去ることを許してくれなかったのである。それは斎藤佑樹や島袋洋奨の末路を知っているから、というのとはまた別の文脈からくるものであった。

 

 

「ブラックな部活動」が問題となって久しい。多くの暴力的な指導、独特の親密圏に蔓延る不正が白日のもとにさらされては、社会的な批判を浴びてきた。そして、こうしたブラックな部活動問題は、日本社会の重大問題として観察されているモーレツ的基質=ブラック企業体質と地続きのものとして告発されてきた。一方で、部活動によって、高校生が「何か」に全力で取り組む様は、代えがたい教育効果を持つものとして、あるいは麗しく感動を与えるもの、「よき思い出づくり」として一定の位置づけが与えられてきた。

 

両者は接続してもいるし、分離してもいる。というのも高校生が全力で自発的に取り組もうとする姿勢が、結果的にブラック化を強固に支えている側面がある一方で、全力で自発的に取り組むこととブラック化は不可分であるとは言えないからだ。両者の〈間〉、すなわち全力で自発的に取り組みながら、ブラック化を回避する、という取り組みのあり方は教育学者をのみならず多くの場で議論されているが、一向にまとまりを見せない。こうした不統一は、ひとえに「何をブラックとみなすのか」があまりに論争的であることに起因するように思われる。

 

金足の吉田くんに注がれていた視線は、彼が一球児として「投げすぎている」ことにだけ起因するものではなかった。彼が「プロ注目の投手として」「甲子園で」投げすぎているから問題になっているのである。前者は本論で扱いたい原因ではない。念の為言っておけば、私は野球一般を観戦することも好きだし、そうした視点から吉田くんのような素晴らしい選手が、酷使のために今後のキャリアを彼の能力に比した形で送れないことを危惧する気持ちは十分に理解できる。ただ本論が扱いたいのは後者の視点である。彼は、「甲子園」で投げすぎているように見えるのだ。「甲子園」は日本の部活動文化の典型にして頂点である。ただ球児たちのみがそこに憧憬しているわけではない。私を含めて野球部に所属していなかった多くの人々にとって、「部活動」、もっと広くとって高校生としての「卓越」の1つの結実は「甲子園」にあるのだ。そこで展開される「ブラック的な」現れ。そこに何かしらの象徴的な意味合いが読み込まれることは無理からぬことであった。「甲子園らしさ」に対して向けられる「平成らしい」視線。私は、我々はいかに向き合っていくべきなのだろうか。

 

 

甲子園というのは、比較的管理された大会である。その全国的な注目の高さゆえにというべきか、球児たちの健康には比較的高い配慮がなされている。そして、野球という競技の性質上、重度の熱中症にさえ配慮すれば、ほぼほぼ即座に命に関わるような故障も起こらないだろう(頭部への死球は除く)。もし甲子園で何らかの怪我をしたとしても、多くの球児たちにとっては「名誉の負傷」でしかなく、彼の今後の思い出とはなっても、彼の今後を暗澹と規定してしまうようなものにはなりえないことが想像される。そんな彼らに対して、やれブラックだ、やれ投球制限だと言って制限=保護をかけようとするのは、彼らの「全力」に水を差す余計なお世話かもしれない。だいたい、いちいち「苦痛」や「強制」のすべてを告発していたのでは競技スポーツは成り立たない。もうやめたいとさえ思ってしまうような、きつく長い数多の経験を、歯を食いしばって堪え続け、最後の瞬間まで自らの限界の限り全神経を集中させることによってのみ、一瞬の卓越が手にされる。その瞬間にしか許されない愉悦、固有の価値を知っている人ほど、こうした無用な保護はそうした価値を否定するようなものにさえ思われるのだ(私も競泳を長いことやっていたから気持ちは理解できる。ただ競泳は個人スポーツであったから野球のような団体スポーツではまた違った感覚があるのかもしれない)。この限りにおいて、彼らに「平成らしい」眼差しを向けることは筋違いなのかもしれないとさえ思う。

 

一方で、そうした愉悦にまで、「興ざめな」批判の眼差しは向けられる。それは果たして「教育的」と言えるのだろうか。自己と比した卓越からくる愉悦ならいざしらず、他者と比した卓越からくる愉悦は、エゴイスティックな優越感を生むばかりで、「人格の完成」に何ら資するところはないのではないか、とも。現に、そうした愉悦を知っているはずの多くの人々が、いじめやブラック化に加担し、そうした価値観を他者にも押し付けようとしているではないか。むしろ、そうした優越感を肯定したいのは、自分がやってきたこと-理不尽や過度の無理を含む「努力」-の意味付けをしたいからであって、決して本来尊ばれるべき固有な価値を守ろうとするためではないのではないか、と。こうした限りにおいて、我々が高校生の、本来不必要な苦痛を含む「全力」にまで読み込んでしまう感動というものは、一種の自己正当化でしかなくて、自己正当化の循環に高校生を不必要に組み込もうとしていることではないか、とさえ考えられる。酷暑の中無理を承知で戦い続ける彼らを、クーラーの効いた部屋であれこれ言いながら眺め、無邪気に感動する風景。時代はこうした風景に、幾ばくかの暴力性を読み込まないではいられないように仕向けているように思われる。

 

 

私は若干戸惑っているのだ。私の中にもたげ続けていた視線について。こうした視線はただただ無用なお節介に過ぎないかもしれない。あるいは、私が思う「価値観」を、たまたま私の眼前に映っただけの「球児」に押し付けたいだけの、エゴイスティックな配慮の発露なのかもしれない。こう思ってみても、消えないこの視線について、私は戸惑っているのだ。私は勝手に、こうした視線について「平成らしさ」という名前を与えてみた。「平成」という時代を通じて高まってきた、伝統的な「甲子園らしさ」を味わうためには無用な、邪魔でさえある視線。それが交錯した平成最後の夏の甲子園は、次の時代にどう変わっていくのだろうか。その未来は、誰か一人の手にあるものではなくて、人と人との〈間〉に賭けられているようにも思われる。また、それは誰しも冷笑的であってはならない1つのアポリアを示しているものでもあるだろう。

早稲田オーキャン立て看のダサさと「早稲田らしさ」

ここ2週間位、早稲田のオープンキャンパスで学生サークルの立て看を撤去して大学側が貼っつけた(クソダサい)看板をめぐって学生界隈で少し騒ぎになっている。記憶が正しければこの立て看と標語は去年辺りから大学側が使い始めているし、去年も全撤去はあった。ただ今年はオーキャン関連で学生サークルに対して締め付けが厳しくなったこともあって若干燃えている。本稿では、その標語の絶望的なダサさについて滔々と書いてみたい。

↑立て看はこういうもの

 

ダサさの根本は、言葉取りに知性がないことにある。一応自負も込めて日本一の私立大学だと思っているが(三田にある宗教法人は知らない)、この言葉取りの絶望的な知性のなさは大学の品位そのものに関わる。そして多くの場合自己矛盾を起こしている。とりあえず見つけられる限りの標語を引用して1つ1つやっつけていこう(レイアウト上の改行はなかったことにする)

 

君たちが世界だ。世界をつくるのは君たちの言葉だ。
You are the world. The world that your words create. 

 

 全体の中で最も目立つ形で貼られている標語である。知性がないポイントはいくつかあるが、まず日本語として読みにくい。君たち=世界と定義されたのに、なぜその世界を「つくる」のは「君たちの言葉」なのだろうか。君たち(立て看に名指された僕たち)そのものが世界であるならば、君(僕)がここに在るだけで世界は成立するのになぜわざわざ言葉でもってつくり直さねばならないのだろうか。

 

そもそも「世界」とは容易に使えるタームではない。ヘーゲルの「世界史」、ハイデガーの「世界内存在」などがぱっと浮かんだが、それこそ「世界」中に多くの世界解釈が存在する。「君たちが世界だ」的な独我論的世界観もないわけではないが、それは別の標語で大学側が提示する「人間を愛せ」的な思想とは全く異なる、認識論上の議論の上でのことだ。「世界をつくるのは君たちの言葉だ」だけなら、まだ了解可能であったが、かっこつけて加えた「君たちが世界だ」が恐ろしくダサい(ついでに言えば立て看を立てることで大学側は世界(=早稲田)をつくる一端を担っているはずの僕たちの言葉をかき消している。世界をつくる言葉は学生だけのものでもないが、当局だけのものでもない。)

 

国籍や、文化や、言語に関係なく、人間を愛そう。

Regardless of nationality,culture or language,open your heart to others.

 

言っていることはわかる。ただこれに関しては英語のほうが意味が通りやすいし暑苦しくない。なぜ「人間を愛そう」などという暑苦しい日本語の言葉取りをしてしまったのだろうか。噂によれば某広告代理店への外注だと聞くが、そういう香りがプンプン漂ってくる。そういう文化圏には生きていないので見ていてキツイ。

 

正義だらけの世界を正せ。

In a world overrun with righteousness, be the one who does what’s right.

 

これまでで、日本語の標語については一番同意できる。一般的な意味で言う世界には「正義」「正論」ばかりがはびこっていてちっとも面白くない。そして、「正義」や「正論」がいつも1つだと信じている人びとはあまりにも多い。正義はひとつならずあり、世界を正す方法だって一つならずある。それを見つけ、それに向かって生きることは極めて重要な構えだ。ただ個人的に英語が気に入らない。『ハムレット』の一節をはっつけておこう。私が最も気に入っている一節である。

 

The time is out of joint. O, cursed spite,
that ever I was born to set it right! 

時間(世界)の蝶番が外れてしまった。ああ、なんと呪われたことか。
それを正すためにこの世に生を受けたとは。

 

去年の自分には絶対に出来ないことをやれ

Do something that last year’s “you” would never imagine you could do.

 

わかる。とてもわかる。願わくば「絶対にできないこと」が「できる」ような防護壁(アジール)に早稲田大学がならんことを。現状は保護をしてくれないどころか、「絶対にできないこと」をできないままに止め、「やってほしいこと」に変えようと必死なようにも見える。

 

教養は、君を自由にする武器だ。

Arm yourselves with knowledge. And freedom will be yours.

 

日本語はわかる。教養を最も素直に英訳すればliberal artsであり、正しく「自由」のための「業」である。ただ、日本語と英語が噛み合っていない。教養=knowledgeはかなり引っかかる。ただ、ニュアンスを取ればまあギリギリいけるかもしれない。

 

異物になれ、異質になれ、異和感をもて

Be unconventional. Be uncommon. Be unexpected.

 

英単語のとり方がダサく日本語とつながらない。そして、異物、異質、異和感なるものがこの大学で正しく大切にされているとは思わない。こうした異なる感じの前につくのは、だいたい「望ましい」という形容詞である。望まれない異質感は、排斥され矯正される。確かに、人と違うことをしようとする姿勢が「大学」という組織に束縛される必要はないし、大学に守ってもらわなくたってできることはできる。けれど大学がそういう価値を認めてくれるに越したことはない。公式にこういう標語を出すのならばぜひ実践してほしい。

 

この世界から、嘘をなくそう。君たちからだ。

Rid the world of lies, starting with your own.

 

「お前らからまず嘘をなくせ 」という最もな指摘はおいておいて、嘘がない世界などというユートピア、もといディストピアを私は生きたいとは思わない。嘘はしばしば我々を生きづらくさせるけれど、それと同じくらい我々を生きやすくさせる。この両義性、どうしようもなさこそが人間臭さである。嘘は望ましいものではないかもしれないけれど、嘘のない世界は私にとっては望ましくない。(あと英語のテンポが悪い。)

 

 

とりあえず見つけられる限り7つの標語を挙げてみた。個人的にこの問題に関して「大学側の抑圧だ!」とか過度に熱くなる気はしない。大学が無条件に学生側の表現のすべてを「公認」せよなどという気はないし、すべてを「公認」してくれなど縋り付く気もない。ただ、「あれは学生が勝手にやってることですから」といいながら黙認するぐらいの度量の広さはできれば見せてほしいものである。

 

大学側が強調しなくたって早稲田には様々な考え方、見方を持った学生・教職員がいる。その現れ、価値観は様々であって、みんながみんな飛び抜けて「変」なわけではないし、変で有りたいわけでもない。ただ本当にいろいろな人がいるということ、彼らがそれぞれ多くの面で違うにもかかわらず同じ学び舎に通い、「早稲田」という共通世界を作っていることが「早稲田らしさ」の本義であるように思うのだ。「早稲田らしさ」は学生だけのものでもないし、教職員だけのものでも、校友だけのものでも、大学当局だけのものでもない。ましてやダサい標語でくくられるほど不格好なものでもない。この点を勘違いして、勝手に「早稲田らしさ」を押し付けようとしてくる様々な言説には学生のものであろうと大学側のものであろうと、「異和感」しか感じない。

「みんなちがって、みんないい」言説を乗り越える

「みんなちがって、みんないい」とは金子みすゞが唄った「私と小鳥と鈴と」の一説である。

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のやうに、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。 

金子みすゞ,「私と小鳥と鈴と」

 

私は本稿で、この美しい詩そのものについてとやかくいいたいわけではない。「みんなちがって、みんないい」を押し付けてこようとする諸々の言説についてとやかく言いたいのである。一見、競争社会、市場社会において失われがちなモノ、コトの普遍的価値を称揚しているように見える「みんなちがって、みんないい」という言葉の専制的な横行が、多くの価値を不必要に相対化し、多くのものを見えなくしてしまっている。

 

こういうことを書こうと思ったきっかけを示しておこう。以下のツイートの(地獄のような)リプ欄を眺めたことがそのきっかけである。

 

 

先日亡くなった歌丸師匠が、「日本語であり、日本語の文化である日本の言葉を使って笑いを取るのが芸人である」、巧みな言語によらない「一発ギャグ」のような笑いは芸ではない、と主張しているものである。これについたリプは、うまいことを言っている人もいるが、「いろいろな笑いを認めようとしない老害」とか「ジャンルが違うのに芸じゃないとは言えない」とかそういうたぐいのものが多い。いわば「みんなちがって、みんないい」をいい、そうした価値観を唱えようとしない人を無意識に排斥しようとする言説の数々が唱えられているのである。

 

こうした言説の末恐ろしさはたちどころに理解できる。彼らは恐らく、「主張」の言わんとすることを何も聞こうとしていない。ただ、歌丸師匠が「みんなちがって、みんないい」という価値観に立っていないこと、言い換えれば「何かを価値がないものだと言おうとしている」ことのみをあげつらって批判しようとしているのである。歌丸師匠が言いたかったこと、その言葉の背景とか含みと言ったもの、そういったものを全く見ようとしてはいない。ただ、病的に、「みんなちがって、みんないい」という見方をとっていないことに腹を立てているのである。

 

こうした、いわば「多様性全体主義」とも呼べる(一見あべこべな)考え方はあちこちに蔓延している。確かに、今なお多くの状況において、本来斥けられるべきではない価値の多くが無下に扱われ、尊重されるべき多様性が排斥されていることも事実である。しかし、「多様性は尊重されるべきである」ということが強く言われるあまり、何か特定の価値/考えを追求しようとする姿勢が、排他的で反=多様であるというご無体で表面的な批判が横行してはいないだろうか。

 

教育現場に引きつけて考えてみよう。現場では、しばしば、先生の考え方、教えようとする方向に反した意見を持つ子ども(しばしばその意見には正当性があることが多い)が排斥され、先生の思い通りの答えを言う「いい子」の意見ばかりが評価される、という状況が蔓延している。しかし、現場にはまた、「みんなちがって、みんないい」を否定できない空気感も蔓延してはいないだろうか。先生の考えを植え付けることに腐心する排他的な指導が存在する一方で、「AさんもBさんもみんなちがって、みんないい意見をいっていますね」とまとめるばかりで、そこからどんな価値が取り出されるのか考えようとせず、あるいはAさんとBさんの意見がなぜ/いかに異なっているのかを考えようとしない指導も蔓延しているように思われる。「みんないい意見」なのだから、その「いい意見」に対立する意見を述べることは暗に勧められず、当たり障りのない意見、抽象的でふわふわしていて、なにか言っているようで何も言っていない考え方をすることが「よいことなのだ」という風潮が形成される。そして、こうした風潮が「多様性全体主義」へと向かっていくのである。確固たる意見を持つこと、何か特定の価値に専心し、それに向けて活動していくことは「みんなちがって、みんないい」を否定すること、望ましくないこと、と考えられるようになっていく。

 

しばしば、グローバル時代の問題と絡めて「他者を尊重すること」と「自分の意見を持つこと」がセットで論じられる。前者的な考え方が肥大して「みんなちがって、みんないい」言説が全体性を帯びれば帯びるほど、後者的な「意見」は大衆迎合的で当たり障りのないものに堕していくことは容易に想像がつく。大衆迎合的になる、とはすなわち支配的なものの考え方(現在で言えば資本主義的なモノの考え方)に阿り、それを強化していこうとすることを意味する。これは、まさに「多様性全体主義」が生む非=多様性、すなわち全体主義的体制そのものではないか。そして現に、グローバル時代に国籍を問わない多くの人が交流するようになったにもかかわらず、世界規模で価値観の不寛容な統一がなされているように見えるのである。世界は消費的で反射的な正義言説に溢れ、そこからはみ出す価値観/考え方は疎外され、匿名性の森のなかに潜伏し先鋭化していっているのである。

 

 

「みんなちがって、みんないい」と言うことはいい。そう言うことによって多くの価値が承認され、いまよりもずっと他者も自己も生きやすくなるかもしれない。しかし、そうした価値観を全体化させてはならない。同時に考えなくてはならないのは、「自分の意見を持つこと」、すなわち特定の価値観、考え方を追求し、その先端から世界を見つめてみようとすることであり、そうした見方にたとうとする他者の意見に傾聴し、自らの意見を更新していこうとする姿勢である。「みんなちがって、みんないい」は節度を守って使われねばならない。

 

 

『万引き家族』雑感~倫理とか家族とか

==ネタバレ注意==

 

足掛け1ヶ月以上かけて取り組んできた一連のレポート作成が終わったので、流行りにのって『万引き家族』を見てきた。この映画については告知を見たときからなにかブログに書いておこうと思っていた。しかし、いざ書いてみようと思うとなかなか進まない。進まないままに1週間が過ぎ(またそうこうしているうちに2週間が過ぎ)てしまった。この「書き進まなかった」ということを記したほうが雑感としてふさわしいのかもしれない、と思い直している。まずつらつら構成その他諸々についての雑感を記して、「倫理とか家族とか」をテーマに感想を綴りたい。

 

・雑感

本作をどう読むか、鑑賞したその日から私はいろいろな可能性を考えてきたた。例えば、『万引き家族』を物語の束としてのテクストととって、一人一人の人物の物語へと読みほぐしていく読み方とか。しかし、どうにもそうした読み方には歯抜け感が否めない。正確に言えばそこで綴られた諸々の言葉に興ざめ感が在るのである。ではこの興ざめ感とは何なのだろうか。それはこの『万引き家族』という映画が社会派チックすぎるからかもしれない。あるいは、それがわかりやすい「救い」を含まないからかもしれない。そんなことを今は考えている。

 

万引き家族』を最も素直に受け止めれば、それは社会問題の告発として捉えることができるのかもしれない。確かに映画では生々しく貧困が描かれている。貧困とは、モノやカネが不足していることでもあるが、根本的には消費や思考のモードそれ自体が「貧困」化してしまうことを言う。収入はないのに酒・タバコ・パチンコはやめられない。ガラクタは多いのに必需品には事を欠く。目の前の「生」に精一杯で先のこと、他者のことが考えられない。そうであるのに「生活保護」などの制度を利用する方向に向かうことはできない。(もちろんこれは『万引き家族』が「違法」状態であったことにも起因する)こうした有様を貧困状態、及び貧困の帰結として考えることができる。

 

万引き家族』で描かれた貧困を巡る社会問題ーJKリフレ・子どもの貧困・未就学児・児童虐待(ネグレクト)などーはいずれも現代日本において深刻化しつつある問題である。『オールウェイズ三丁目の夕日』などで描かれる「貧しさ」とは異なる後ろ暗さを感じる貧困である。こうした問題は普段の我々からすれば見えにくい。ニュースなどで報じられていても、現実に見えないから、「そんなことはあるのか」という気持ちになりやすい。しかし、「見えない」ことこそが(構造的)貧困の本質なのである。『万引き家族』もまた、ほとんど誰にも見られてはいなかった。(見られないからこそ歪な紐帯が成長し得たとも言う)そして、「公」の光に「発見」されることによってその紐帯は解体/破壊されたのである。

 

もちろん、『万引き家族』の魅力は、こうした社会の暗部を克明に描き出したことのみにあるわけではない。そこで描かれる「人間」ー偽りの家族ーの生気もまたこの映画の魅力であるように思うからである。けれど、この点について、私はなんとか書こうと思っては書き棄て、を繰り返してきた。なぜか。1つには、そこに含まれている物語が多すぎるのである。取って付けたような物語が多いように思われる。何かを読もうと思えば読める、しかし、読み込むほど深みのない物語が多い。少し読み込もうと思えば社会派くささが漂ってくるのである。あるいは、この物語のもつ絶妙な救いの無さに原因があるのかもしれない。しかし、これもまた、ある意味で社会派くさい手付きであるように思われる。凛(一番下の女の子)は家に連れ戻され、治(お父さん)は成長せず、亜紀(JKリフレで働く女の子)に至ってはその先を暗示するものがほとんど見いだされない。なんとはなしに、こうしたキャラクターが、社会派的な手付きのもとに創られた、うさんくさい、取ってつけたような(興ざめの)道具に見えて仕方がないのだ。

 

取ってつけたような道具は、この映画の随所に登場するように思われる。初枝(祖母)がたびたび訪れる元旦那の子どもの家族が例えばそうである。この家族は「いわゆる」中流のイメージを描きすぎている。確かに貧困の対照(コントラスト)として、都合のいい道具かもしれないが、あまりにも典型的すぎて、都合が良すぎるように感じてしまう。あるいは大和屋(雑貨屋・駄菓子屋)のおじいちゃんについてもそれが言える。祥太(息子)の変化の契機として道具的に使われている。そして、わかりやすく「忌中」になって、物語の舞台から退場させられていくのである。

 

こうした諸々のうさんくささを取り払ってみて、このテクストに残る物語は祥太の物語くらいだろうか。祥太が自立し、親を乗り越え(殺し)ていく物語として、このテクストは十分に読み込むことが出来る。万引き→懐疑→補導→釣り→歪な雪だるまと展開する物語はなかなか複雑であるが、彼を自立に導いたのが「凛」である、として見る読み方が最も素直だろうか。彼は被保護者であると同時に保護者になった。家族としての「名」を与えられることで、彼は偽りへの懐疑を持ち、それを壊すことにしたのだ。彼は壊すときーあえてつかまろうとするときー笑顔だった。その笑顔こそが、この映画の1つの到達点であろう。

 

 

・倫理とか家族とか

どうにも映画に対して批判臭い雑感になってしまった。しかし、私はこれらを持って、『万引き家族』がつまらない映画だとか、見る価値のない映画だとか言う気はない。むしろ様々な人が見て、何を感じたか語っていくべきたぐいの映画であろうように思う。であれば、私もそれを記すべきであろう。なぜ書き進まなかったのかを乗り越えて、感想を書くのが以下である。便宜的に「倫理とか家族とか」というサブタイトルを振っておいたのもここにあたる。

 

さて、感想を見やすくするためにサブタイトルをパラフレーズしておこう。私がここで問いたいこと、それは以下の二点である。すなわち彼らは倫理的であったのか、彼らは家族的であったのか、この2点である。まず前者から論じていく。

 

彼らは倫理的であったのか、『万引き家族』に寄せられた数々の下世話で読むに値しない感想の多くはこれに無条件のNoを突きつけている。曰く、いかに貧困であっても万引きはよくない、故に彼らに同情はできない、とかその手の感想である。あまりにも「貧困」なテクスト読解には辟易せざるを得ないが、1つだけ言っておこう。果たしてそれを指摘する人々は「万引き」をしていない、と胸を張って言えるのだろうか。この場合の万引きとは、店に売られているものをくすねる、いわゆる「窃盗罪」に該当する行為だけを指すのではない。「貧困」を無視しながらー彼らを「見えない」ものに留め置きつつー彼らの労働の成果を(「正当な」市場価値から見れば不当な価格で)収奪してはいないだろうか、という問いかけである。なるほどこうした収奪は資本主義体制のもと、ある程度認められている。いちいち、たとえば牛丼チェーンで牛丼を食べながら上のようなことを思っていたら肩が凝って仕方ないだろう。私は常にこうしたことについて罪悪感を持て、と言いたいのではない。しかし、この収奪はあまりにも行き過ぎてはいないだろうか。それを看過し、「万引き」をただ違法だからと盲目的に咎めることに、一体どれだけの正当性があるといえるのだろうか。そして、こうした視角から見て、万引き家族の「倫理」を捉え返してみたとき、彼らのそれは別様に見えてくるはずである。そう捉え返してみうることにこそ、この映画の1つの特質がある。(※)

 

次に家族に関する問題について。これについて、我々は常日頃、「家族」という関係性にあまりにも多くの本来付ける必要のないイメージを付け加えているように思われる。曰く、血がつながっていなくてはならない、とか、親密でなくてはならない(≒血がつながっているならば当然親密であるはずだ)、とか。前者は今作の舞台設定であるからいいとして(※2)、後者について、「親密でない家族」という多くの例外が日々我々の眼の前で展開されているにも関わらず、我々はこうした観念のもとに多くの人(あえて子どもに限定しない)を悲惨な状況に閉じ込めようとしてはいまいか。児童虐待とかDVとかそういう事態にとどまらない大小の暴力が、大小の幸福と同様の頻度で持って家庭ー私圏ーでは繰り返されている。だから私圏は解体されるべきだ、と論じるのではない。なぜなら、私圏は外の世界と隔絶された、いわば囲炉裏の暖かさと暗がりに包まれたような、ある種充足的な空間であるからである。囲炉裏の暖かさなくして我々は外の世界で生きていくことは出来ない。しかし、その囲炉裏の暗がりを不可知のものとして、全く見つめようとしないこともまた許されないだろう。フェミニズムの有名な標語に「個人的なことは政治的なことである」(The personal is political.)という言がある。これが全面的に正しい言説であるとは思わないけれど、個人的な事柄のある種の政治化ー不断の捉え直しーもまた、肝要であろうように思われる。そしてこうした文脈で問い直してみるのだ。「彼らは家族であったのか」と。

 

 

おそらく映画を見て、我々は各々問い返すべきなのだ。今まで当然だと思ってきたこと、あるべきだと思ってきたあり方、見つめようとしてこなかった存在を。そうして何かを、自らの今までのものの見方で把握しきれない異質な何かを、自己の中に付け加えるべきなのだ。『万引き家族』はこうした見方に耐えうる映画である。

 

 

※:こうした物言いは、一種のマルクスっぽさがある。「マルクス」といえば一般には何か腫れ物を触るように思われるかもしれない。ソヴィエトの崩壊ー資本主義の「勝利」ーとともに彼の思想は「死んだ」ものとして埋葬され、未だ彼を取り上げ活動を行う人々は時代遅れの「新」左翼であるなどと思いなされているかもしれない。しかし、マルクスの思想は死んだのだろうか。未だ全く乗り越えられないまま、我々はソビエトと有象無象のマルクス主義者たちが敗れ去ったことを当てこすりにして、それを無視しているだけではないだろうか。私はマルクスの描いた理想を盲目的に実現せよ、とかそういうことをいいたいわけではない。マルクス主義者を自称する気もないし、それを専門にする気概もない。ただ「マルクス」が不当なレッテルのもとに無視されていることを指摘したいだけである。これには2つの起源がある。1つはまさに本稿で指摘するところの、盲目的な遵法意識ー秩序的精神ーである。マルクスの思想は正しく反ー支配秩序的である。しかし、反ー秩序的ではない。秩序を支配的イデオロギーから別様に作り変えようとする思想である。盲目的な遵法意識は結果的に支配的秩序の専制を強化している。もう1つは、彼の遺産を継承したと自称する有象無象のマルクス主義者たちである。彼らによって作り変えられたマルクスの思想は、その本源的な問題提起の多くを脱色し、拡大/縮小解釈してしまった。彼らの理論が破綻したとき、当のマルクスもまた破綻したように思いなされてしまったのである。もちろんマルクスの議論に一切の問題がないわけではない。しかし、そ種々の問題は、彼の「問いの立て方」を全面的に棄却するものではない。

 

 ※2:血の繋がり=肉親、というのは本来的な意味で必要な条件であるのかもしれない。血のつながった親子関係というのは、存在論的な次元で代替不可能であるようにも思われるからである。こうした代替不可能性を援用して、児童虐待が当の子どもによってなかなか告発されない事態を分析する見方もある。血がつながっていなくても代替できる親の役割とそうではない役割、そうした切り分けをせずに、一概に「血縁関係は親子関係に必要ない!」と切り捨てるわけにもいかないだろう。後者的な発想を突き詰めていけば行き過ぎたジェンダーフリーの観念と同じ、カルト的で全体論的な次元にたどりつかざるをえないように思われる。制度指向を持った過度の平等主義者が陥りがちな陥穽である。

教育は何のために〜アイデンティティ、個性、限界

Twitterを眺めていたらこんな漫画を見つけた

 

言ってしまえばよくある「教育」への疑問というやつである。このツイートが多くの共感を集めていることからもこのことはよくわかる。そして別段、この疑問を「ありきたり」と切り捨てるためにブログを書いているわけではない。(教育学を専攻する院生がこのレベルの問題提起で満足している、というところがとても学芸大っぽい気がするが、別に問題提起そのものが即座に問題なのではない。)この疑問を受け止めながら教育学徒なりの私論を展開するためにブログを書いている。まず、論点を整理し(①)、次にありがちな議論がはらむ問題を指摘し(②・③)、最後に「それでは何ができるか」を記す(④)こととする。

 

① 論点の整理

この漫画が提起している問題を、いわゆる「受験のための教育批判」と取ると少し認識がずれるように思う。簡単にまとめれば、「自分が何者であって、自分が何をしたいのか」にコミットしようとしない教育への批判である。教育を授けてくれる周りの人はみんな自分のことを思ってくれていたはずなのに、その結果できた「自分」は、今目の前のことを云々するのに必要な能力さえ持つことができていなかった、という気付きが教育への疑問へと捉え返されれている、と見ることができる。

 

② 確認すべきことー「教育って何だろう?」という問いの意味

「 教育はなんのためにあるか」。この問と、「よい教育とはなにか」という問は全く同じことを言っている。「教育ってなんだろう?」と問うその背景にはすでにその人自身の考える「よい教育論」が紛れ込んでいる。この漫画を書いた彼女の考える「よい教育」とは端的に言えば、「アイデンティティ形成にコミットする教育」であると言える。(本来的な「アイデンティティ」概念からするとこのまとめ方は幾分誤用であることは認識しているがご容赦いただきたい)確かに、教育はアイデンティティ形成に結果的に強く影響を与えるだろう。しかしそれはあくまで様々な要因が絡まった「結果」の議論でしかないことはしばしば見落とされる。教育は、アイデンティティそれ自体を「形成する」ものではないのだ。アイデンティティはあくまで個々人の間で同定されるものである。この漫画がそうした誤謬を犯している、とは言い切れないがそうした誤謬を呼びかねない漫画であることは確かである。

 

こうした、アイデンティティという、本来「自ら」の側で形成されるものを「教育」の役割として語ろうとするような、いわば「結果的にそうであること」と「役割としてそうあるべきこと」を取り違えた議論は時折散見される。その代表例は「自己肯定感」に関する議論と「個性」に関する議論である。これらもすべて、諸々の要因の上に個人の中に築かれる「結果」であって、それ自体教育の目的とはなりえない。こうした観点からすれば、教育の役割を「自己肯定感を高めること」とか「個性を伸ばすこと」に設定するのはナンセンスであるといえる。

 

③ 「アイデンティティ形成」が教育の役割論(目的論)としてふさわしくないわけ

②において、上記のような議論は「ナンセンス」であると指摘したが、それはナンセンスである以上に有害でさえある。この事を少し確認してみよう。

 

教育の役割論として、本来「自ら」の側で形成されるものを取り入れてしまうことはいくつかの悲惨を生むことになる。1つは、それが評価され選別されるものになることであり、もう1つは、子どもの側にあるはずの、そうした「在り方を形成する能力」を奪うことにつながることである。

 

1つ目について、教育の役割を論じるとは、教育の「ゴール」を設定しようとすることと同義である。一度「ゴール」がセットされれば、「ゴール」に則って教育の「効果」が測定されることになる。これは、「「教育」という営みは、子どもに対して調整された「効果」をもつべきであり、その効果のために大人はコストを割いているのだ」、という我々に広く浸透している意識のために、すぐさまなされることになるだろう。この効果測定の時、実際に「評価」されるのは教育の成果ー教育を受けた子どもたちーである。そして、評価するということは、すなわち優れた者と劣った者を創り出すことである。こうした価値観は、「アイデンティティ」や「個性」を教育の役割論として据えたときに、極めて悲惨な結果をもたらすものになりはしないだろうか。というのも、特定の基準に基づいて「アイデンティティ」や「個性」が評価され序列化されることになるからである。無論今でもそれは、大雑把に言えば「学力」という基準で為されていることである。しかし、「アイデンティティ」とか「個性」とかいうおおつかみの、個々人の側で形成されるものを教育の役割論に転じれば、今まで序列化の対象には、(少なくとも明示的にはなっていなかった)個々人の性格とか、趣味とかそういったものまで含めて序列化されることに繋がるのだ。これは大きな悲惨であろう。(※1)

 

2つ目について、こちらの方が現在進行系で置きている重大な問題である。言い換えれば、アイデンティティ形成だとか、個性を伸ばすことが「教育の役割」にされた結果、個々人によってそれが獲得されるものだ、という視点が忘れ去られていくのだ。アイデンティティが定まらないこと、「自分らしさがない」ことは「教育のせい」に棚上げされて、自分がそれを選択できない、という事実は棚上げされる。これは、「教育」をある種理想化し、サンドバックにすることで自らの責任を逃れようとする思考である。これはあまりにも貧しい発想であると言わざるを得ない。

 

しかし、こうした恨み節に一分の理もないわけではない。というのも、教育は確かにアイデンティティとか個性とかいうものにコミットしてこなかったかもしれないが、それ以上に「教育」という営みによってそれが妨げられていたのではないか、という疑念を抱くことは至極まっとうなことであるからである。というのも、教育ーここでは近代学校教育のことであるがーの目的の1つは、近代社会に相応しい個人の育成ー規律化ーにあるからであり、現に教育現場の多くにおいて、「出る杭」を叩き潰し、「みんなで同じ方向を向く」ことこそが「教育」の名のもとに行われているからである。けれども、それを持って自らがアイデンティティを獲得できないこと、個性がないことを教育のせいにのみ帰するのはお門違いである。なぜなら、それはいついかなる時であっても、「自ら」獲得すべきものだからである。この事を忘れた議論は、1つ目に指摘したような悲惨を招くことになるだろう。

 

④ 教育には何が出来るか

ここまでの議論は否定論ばかりであった。これは認めざるを得ない。教育には○○を求めてはいけない、とか、教育には○○はできない、とかそういった議論ばかりであった。ただもう少しだけ「~~でない」という議論を続けることをお許しいただきたい。

 

以前もこのブログで引いたが、社会学者のルーマンは教育について次のように述べている。(というかここまでの議論の展開の仕方もルーマンっぽさがプンプンする。自戒も込めて)

 

教育者は、後で生じることを知ることはできない。だが、彼は何かが生じることを知っている。……教育は、社会化をただ別種の差異経験をとおして変化させることができるだけだ。
Lihumann, Niklas, 1987, “Strukturelle Defizite. Bemerkungen zurs systemtheoretischen Analyse des Erziehungswesens,” Oelkers, J. u. a., hrsg. “Padagogik, Erziehungseissenschaft und Systemtheorie.” Weihheim/Wasel; Beltz Verlag.;67f

 

こうした議論を踏まえて、しかし問い直そう。教育には何が出来るのだろうか。特に、冒頭で引用したツイートの「疑問」にどう応える事ができるのだろうか。

 

1つ目に、ルーマンを引き受けながら言うとすれば、子どもを支配することをやめようとすることが可能である。言い換えれば、教育の限界を確定しようとすることである。子どもは、我々大人(もはや、このようにくくられる側に私も入るべきなのだろう)が考えているようには振る舞ってくれない、偶然的で不可解な存在ー自己創出する存在ーである。それを我々が理解できる形へと押し込めようとするから無理が生じるのだ。もちろん後述するように、いくつかの面において子どもは支配されなければならないだろう。しかし、必要を超えて子どもの行末を支配しようとすること、子どものあり方を規定しようとすることをやめるべきであろう。そうすれば、少なくとも、個性やアイデンティティを抑圧することから教育は自由になる。

 

2つ目に、子どもを「守る」ことである。何から守るのか、すなわち取り返しのつかない様々な出来事、考えからである。子どもを全く支配しないことは取り返しのつかないあやまちを生む。子どもがいかに制御の効かない存在だとしても、車の前に飛び出す子どもの行動をほっておいたのでは取り返しのつかない事故を生む。「いじめ」を放置することも同様である。「自分」についてうまく理解できていない子どもは、他者の痛みもなおさらうまく理解できないからこそやりすぎる。(理解できないというよりは「限度」がわからない。他者に共感する力は、たくさんの言い訳を覚えた大人より素直に発露されるだろう。)こうした種々の取り返しの付かないことに関して、大人は支配的権力でもって、それを統御しなければならない。その権力の方法は様々であるが、最も効果的なことは、「愛」「信頼」などという言葉の裏にその権力を仕組み、子どもがそれを認識できないような形に留める方法であろう。物理的に、あるいはきつい言葉に頼って支配するよりよっぽど効果があるし、日々巷のお母さんたち、先生たちがやっている方法である。(ただしこうした支配の方法は効果がありすぎる。そしてそれが「支配」であると認識されなさすぎる。「あなたのためを思って」とか「あなたを愛しているからこそ」などという言葉によってどれだけの子どもが惨めに虐げられ、絶望してきただろうか。)(※2)

 

3つ目に、子どもが「画一化していこうとすること」を止めることである。「人と同じこと」は、極めて居心地がいい。他の人と同じ意見であること、他の人と同じ格好をすること、他の人と同じ進路を選択することは極めて居心地がいいのだ。だからこそ、子どもはしばしばそちらの方になびこうとする。もちろんこの「なびこうとすること」は、全ての子どもに共通するわけではない。同じであろうとすることに気味の悪さを感じ、そこから離脱しようとする子どもも多い。しかし、その子らも「人と違うことをしたい」という思考へと画一化していこうとするのだ。

 

こうした画一化へ抗うには、一つのことを思い出させるだけでいい。それは、すべての人はそもそも「違う」ということである。顔貌に始まり、性格から何から全て違う。誰かと違うことは何も特別なことではないのだ。だからこそ、同じになっていこうとすることに対して適宜「中断」を挟み込まなければならない。「あなたはどう考えますか?」「あなたはなにがしたいんですか?」などというように。これを問うこと、これを考える体験を与えることは、教育において十分可能であろう。

 

 

おそらく、教育に出来ることはまだまだ多いだろうし、上記のうちにも思わぬ陥穽が存在していることは疑いのないことである。それゆえ、「現在の私の教育論の到達点」として、この当たりで止めて/留めておこうと思う。とりあえず「教育って何だろう?」から「教育には何が出来るんだろう?」へと問いをずらしてみることから始めるとよいのかもしれない。(※3)

 

 

※1:もちろん、我々の性格とか趣味というものだって別の尺度で常に序列化に晒されているし、序列化の眼差しを向け続けられている。ある性格は優れた性格であり、ある性格は劣った性格である、ある趣味は優れた(好ましい)趣味であり、ある趣味は劣った(ダサい・つまらない・キモい)趣味である、なんて議論は枚挙に暇がない。こうしたある種の価値規範が「見えない」こともそれはそれで問題である。フーコーが指摘するように、一方的な眼差しこそが最大の権力である。それらの権力を「暴く」ことはもちろん重要であるが、それを教育の価値として一元的に開示していくことが重要であるとは思わない。

 

※2:「愛」とは最も効果的な権力行使の方法である。そして、ときに最も悲惨な支配を生む源泉でもある。「博愛」を掲げたフランス革命がいかに悲惨な最後をたどったか、想起すれば理解できるだろう。「愛」のみに依ってたつ関係性は私的関係を越えて適用されるべきではない。それは適切にコントロールされるべき情念であり、無制限に適用されるべきものではない。(このことはしばしば忘れ去られ多くの「メンヘラ」「共依存」を生んでいる。ただしそれが私的関係のうちに留まっているのであれば、大上段に構えてとやかく言う話ではない。本人たちが納得しているならそれでいい。)それゆえ、教育関係としても「愛」は適切ではない。ここにペスタロッチを始めとして多くの友愛的な教育者の陥穽が存在する。

 

※3:今回の議論は、ルソー、フーコールーマン、ビースタを混ぜ合わせながら現代教育批判のスパイスと私論を混ぜて「ガチャガチャポン」とした感じである。本論全体において、例えばランシエール(『無知な教師』)の教育批判への応答は出来ていないことを書き留めておく必要がある。本論の議論もまた、大枠で言えば「説明家の論理」としての誹りを免れない。あるいは、超越論を背景においたような議論をあえて展開していない。そして個人的「興味」は後者にある。このことも加えて付記しておく。